祇園に佇む巨大寺院 その1(建仁寺) | レレレの行ってみたらこんなとこ!

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散策で主に史跡、神社仏閣を巡ってます
各地のガイドマップに載っている史跡、山川出版社から出ている歴史散歩シリーズの画像補完計を秘かに計画しています(笑)
ドライブの一助になれば幸いです(^^)
愛書家(読書家とは違います(笑))なもんでたまに本のことも書いてます

新年明けましておめでとうございます🙇
今年もよろしくお願いします😌
平常運転なので、いつも通りアップしていきますf(^^;
新年早々からお付き合い頂いてる方、ありがとうございます🙇
今日は書いてたように仕事出てるので、コメ返、巡回してのコメは遅くか、明日以降になると思いますので、その旨よろしくお願いします🙏

今回から去年(令和5年)10月21日のことをアップしていきます
この日は建仁寺で行われた「スミソニアン展」を観に行きました
そちらは先にアップしています→スミソニアン展 

今回はその時久しぶりに訪れた建仁寺のことを改めてアップしたいと思います

花見小路を進んだ先に北門があり、そこから入る人が多いかと思います
住所・京都市東山区大和大路通四条下る小松町584
御本尊・釈迦如来(法堂)
                十一面観音菩薩(方丈)
HP・建仁寺 

駐車場・有料のがあり(30分250円)
歴史など
臨済宗建仁寺派の大本山
開山は栄西禅師
開基は源頼家
鎌倉時代の建仁2(1202)年の開創
寺名は当時の年号から名付けられる
山号は東山(とうざん)
諸堂は中国の百丈山を模して建立される
創建当時は天台・密教・禅の三宗兼学でしたが、第11世蘭渓道隆の時から純粋な臨済宗の道場となる
(由緒書きより)

入り口に法堂の天井画の告知

方丈へ向かう手前に建仁寺の境内図などがあります

境内図


沿革・由緒
  臨済宗建仁寺派の大本山、鎌倉時代の建仁2年(1202)に創建された。寺号の由来は朝廷から年号を賜ったもの。山号は東山。
 開山は栄西禅師、開基は鎌倉幕府二代将軍の源頼家卿。室町時代の最盛期には塔頭寺院60余を数えたが、創建当初の建物は応仁・文明の兵火などで荒れ、現存の大部分は江戸時代以降に復興されたものである。
現寺域約2万2千坪。山内寺院17ヶ寺。
 栄西禅師
 御開山は寺伝では「ようさい」であるが一般には「えいさい」と慣用される。
 永治元年、備中(岡山)吉備津宮の社家の生れ、14才で比叡山に登り天台密教を修めたのち、二度の入宋(現中国)求法を果たし日本へ最初に禅を伝えた。中国から持来した茶種による茶の栽培やお茶の効用を説いた「喫茶養生記」を著すなど現在にまで至る日本のお茶文化の礎を開いた「茶祖」として親しまれている。建保3年示寂・75才。
 主な建造物
勅使門(重要文化財)三門(望闕楼)法堂(拈華堂)方丈(重文)東陽坊(茶室)と建仁寺垣
開山堂(霊松廟)など
(原文のまま)
過去に幾度が訪れていますが、ちゃんと行ったのは実に10年ぶりくらいだったので、自分でも驚きました!あんぐり
まだ総集編は作っていなかったので、またまとめて作りたいと思ってます
宿題が増える🤣

本坊入り口
拝観時間 10:00〜17:00
拝観料      600円
今年4月から800円となるようですネガティブシカタナイニシテモ
拝観券

由緒書き

方丈へ向かう途中にあった風神雷神図屏風のミニチュア

方丈の雲龍図襖(高精細デジタル複製)
解説
海北友松筆
桃山時代
現物は重文文化財

方丈正面には実物大の風神雷神図屏風(複製)

俵屋宗達筆
現物は国宝

この部屋の襖絵は竹林七賢図襖(複製)
海北友松筆
現物は重文文化財

方丈正面に広がるのは大雄苑(だいおうえん)



次は方丈、左側
この画像の左側にチラッと見える石塔
これが織田信長の供養塔だとは知らなく(そもそも実際にはよく見ていない泣き笑い)、ブロ友さんの記事で知ることが出来ました♪🙏


後ろに回るとあるのが納骨堂

どうもこの辺りに安国寺恵瓊の墓があると知ったのもまた違うブロ友さんのお蔭でした照れ
その辺り、まだ見れてないものがあることを知ったので、また訪れてみたいと思います😊


方丈・裏側(北側)の部屋の襖絵

輿も展示してあります
解説
対島行列輿
  江戸時代に入ると、五山派寺院も戦国の荒廃から復興に向 かうことができた。
徳川幕府による五山派寺院に対する保護と統制は、足利幕府と大同小異であった。
  寛永12年(1635)「五山十刹諸山之諸法度」という寺院統制令が制定され、学徳兼備の五山僧を「碩学(せきがく)」と呼び一定の禄が与えられるようになった。
  その碩学に、建仁では「古澗慈稽」 「三江紹益」「利峰東鋭」の三師が推薦された。 
  また、五山僧は漢文に関する知識が広く、これが外交文書作成の面から、江戸時代の外交に一役買うことになる。
「対州修文職」である。
「以酊庵修簡職」とも呼ばれる。
以酊庵というのは、九州長崎の対馬にあった寺の名である。 この寺は対馬の太守・宗義調の請いに応じ景轍玄蘇が朝鮮との通講の任に当たった天正8年にはじまる。
  徳川幕府は寛永12年南禅寺を除いた五山寺院の天龍・相国・建仁・東福の四山碩学中より「対州修文職」を選出、輪番制で以酊庵に出張駐在させることになった。
  この対州修文職は慶応2年(1866)まで230年続くことになる。この間87名のべ126名の輪番僧が赴任している。これらの僧は当時の五山の代表的人物で、建仁寺からは十八師が名を連ねている。
(原文のまま)

どの部屋だったっけ💦
たぶん方丈の東側かな?🤔

方丈から小書院へ行く途中にあるのが
〇△□乃庭
単純な三つの図形は宇宙の根源的形態を示し、禅宗の四大思想(地水火風)を、地(□)水(〇)火(△)で象徴したものとも言われる
(由緒書きより)


〇は木の根元、□は井戸、△は建物が絡んでるようです🤔

小書院横の唐子の間


解説
唐子遊戲図  田村月樵
  床壁貼付絵の月夜唐子舟遊図を主題とする。葦茂る湖上に、五人の唐子が舟より月を眺める風情をあらわすが、漂渺たる空間に雲間の月が浮かび、 その影が湖面に幾重もの輪となって映じられているのがおもしろい。押入襖絵の書画を楽しむ情景は、むしろ微笑ましく、舟遊の風流事とともに酒脱な趣味が汲み取れる。
  南側壁貼付絵から東側襖絵にかけては、一転して遊び戯れる唐子たちの姿態が、闊達にとらえられ画面をいっそう明るく動きのあるものとしている。唐子の人物描写に見るよどみない筆運びは、筆者の円熟した画境をそのまま表明しているかに受け取れる。 明治45年の作にて月樵67歲となり最晩年にちかい時期である。
彼は始め写生画に傾倒し、明治初年には、京都洋画壇の先駆者として活躍した「宗立(そうりゅう)」の名で知ら れている。
唐子遊戲図は近世の好画題であり、ことに円山派の画人によってしばしば手がけられてきた。
月樵の唐子は、多分にその影響が認められるとはいえ、 墨書きによる手練は独自のものであり、群としての唐子の配布も妙をえている。
(原文のまま)

唐子の間の大書院側の庭

小書院は、展示物が多かったので、この日は内部は撮れてません😅
その前にある大書院との間にある
潮音庭(ちょうおんてい)-三連の庭-
建仁寺本坊中庭にある潮音庭は、中央に三尊石その東には座禅石、廻りに紅葉を配した枯淡な四方正面の禅庭
(由緒書きより)

グルッと撮ってみますひらめき


再び方丈側へ戻り、法堂へ向かいます

渡り廊下から



方丈(重要文化財)
慶長4(1599)年、安国寺恵瓊が安芸の安国寺から移建
こちらにある本尊は、東福門院寄進の十一面観音菩薩像
(由緒書きより)

外から見た方丈
手前に伸びているのが渡り廊下

スリッパに履き替えて法堂へ向かいます
次回は法堂のことなどとなります

御朱印・御朱印帳は以前頂いており、今回は頂いていません🙇
以前、頂いた時の記事→御朱印 

ガラケーで撮っていたものなので、画像は悪いです💦

建仁寺のこと続きます
では、またぁ〜(* ̄∇ ̄)ノ