久しぶりの清水寺へ(本堂)(舞台) | レレレの行ってみたらこんなとこ!

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各地のガイドマップに載っている史跡、山川出版社から出ている歴史散歩シリーズの画像補完計を秘かに計画しています(笑)
ドライブの一助になれば幸いです(^^)
愛書家(読書家とは違います(笑))なもんでたまに本のことも書いてます

前回からの続き(1月9日のこと)です

轟門を抜けると、そこは本堂(国宝)爆笑
西国三十三所観音霊場(第16番)
洛陽三十三所観音巡礼(第12番)
の札所となっています


本堂入る前に、横から舞台の足元撮ってみました(2月撮影)


本堂入り口脇には弁慶が使用したという鉄下駄と錫杖が置かれています

錫杖は2種類あり
大きい方は長さ260cm、90kg強
小さな方は長さ176cm、14kg

鉄下駄は両方で24kg

その先に舞台

再訪した時よく見ると
真っ平らかと思っていたら、2段くらい段々になっていたんですねびっくり
ちょうど屋根みたいな感じ😄

解説
 国宝 本堂舞台 江戸初期
 「清水の舞台」といわれ、本堂(国宝)の付属建築物で、平安時代の昔から構架されてきた。
 現在の舞台組みは寛永10(1663)年徳川三代将軍家光の寄進による再建のままで、欄干親柱の金銅製宝珠に「寛永拾歳」と銘刻されている。
 本堂外陣(礼堂)の廊下から南の谷へ間口約18メートル、奥行約10メートルに、長さ5.5メートル、幅30〜60センチ、厚さ10センチの檜板を敷きつめ檜舞台として張り出し(舞台板は20〜30年毎に張り替える)床下は巨大な欅の柱に貫を縦横に通し楔でとめて頑強に支え、いわゆる舞台造りになっている。建築学的には、懸造りといい、礼堂の下から長短の欅柱で構築されており、観音様のお住まいとされる南インドの峻険な補陀洛(ポトラガ)山中の宝殿に実に似つかわしい。最南端は錦雲渓の急崖に13メートル強の高さで建ち「清水の舞台から飛び下りるつもりで…」の諺を生んできた。
 本来は本堂に奉納する御本尊千手観様に向かって舞楽を奉納する、名実共に「舞台」で、現に重要な法要には舞楽、芸能などを奉納している。東、西両側の翼廊は、その楽人たちの詰める楽舎である。
 この舞台からの、錦雲渓をへだてた向山の子安の塔と阿弥陀ヶ峰の眺めや、京都市街、西山の遠望は、まことに見事である。
 左下方には「清水寺」の寺名を由来する音羽の滝がこんこんと三筋の清水を流し、その上手には同じく舞台造りで奥の院(重要文化財)が建つ。
(原文のまま)
舞台の床は約184㎡
敷かれている檜板・410枚以上
(ニッポンを解剖する!京都図鑑参照)

本堂内は撮ってませんが、こちらは撮りました
出世大黒天像
これ色が艶々してるから、近年のものかと思ったら、室町時代の作だそうです
高さ 約113cm
「清水寺参詣曼荼羅図」(16世紀)には、かつて清水寺が管理した勧進橋である五条大橋(現・松原橋)の中島に大黒天が描かれており、この本尊であったものだそうです
江戸時代には轟門の手前に置かれる
明治以後は釈迦堂に
昭和47(1972)年、釈迦堂が山崩れにより倒壊した後、現在地に安置される
(以後京都・世界遺産手帳参照)

本堂
礼堂(外陣)だから撮ってませんが、そこに絵馬が掲げられてるのをご存知でしょうか⁉
そこには海北友雪が描いた「坂上田村麻呂、東征奮戦の図」という日本最大級(縦約3メートル、横約10メートル)ものや、やはり友雪が描いた「源頼政鵺退治の図」などを見ることが出来ます

解説
 国宝 清水寺本堂 江戸初期
 寛永10(1633)年徳川三代将軍家光の寄進再建。東・北・西に裳階をつけた正面11間36メートル強。奥行9間30メートル強。棟高18メートルの高大な観音菩薩を祀る聖堂である。
 創建は平安建都都同期(八世紀末)坂ノ上田村麻呂将軍夫妻の寄進による。
 起り桧皮葺き、寄棟造りの屋根や、軒廻りの蔀戸吊りに優美な平安王朝の宮殿と貴族の寝殿造り邸宅の面影を伝承している。
 正堂最奥の内々陣の大須弥壇の上に「清水型観音」といわれる清水独特の姿をする本尊十一面千手観音と脇侍の地蔵菩薩・毘沙門天(三尊とも秘仏で、それぞれ国宝の厨子内に安置され、33年毎に開扉される)および千手観音を守護する二十八部衆、風神・雷神を全体揃えて奉祀する。
 外陣は礼堂で、普段一般の参拝は此所で礼拝する。ために内側正面の欄間に本尊・脇侍の御正体を大きな円鏡形に彫刻して奉懸する。
 また他の各欄間には江戸時代の大絵馬が20面近く奉納されており、中央の間の金箔の大丸柱や折上小組格天井・三尊の梵字を彫刻する彩色蟇股などに江戸初期桃山建築様式の華麗さを見る
 なお礼堂の東西両側に翼廊(楽舎)を突出し、廊下の南側へ“舞台”を張り出している
 西翼廊(車寄せ)の鉄製の大錫杖(重さ90kg、長さ2m62cm)・小錫杖(14kg)と高下駄(一足12kg)は、明治初年、修行者たちが本堂下の音羽の滝から百段の石段万度上り下りの満願成就を感謝して奉納したもの。弁慶の持物にふさわしいが、各所に奉納者の刻名が残っている。すぐ前には出世大黒天が笑坐し。左手の廂間内には塩断ち阿弥陀が鎮座する。その窓下長押の深い痕筋は堂廻りの数取り串の歴史的な擦り傷の跡である
 東出口の西側欄間には臨済宗の中興の祖と称えられる白隠禅師(1689〜1766)揮毫の観音経偈句「慈眼視衆生  福聚海無量」の竪額が揚がる。
(原文のまま)

舞台から本堂を望む

舞台から見た阿弥陀堂(左)、奥の院(右)




屋根上の鬼瓦

奥の院から見た本堂

次は釈迦堂とかへ行きましたが、そのまま本堂・舞台をことをアップしておきます
下から見た舞台
舞台を支えてる柱・139本
崖に競りだしてる部分は約21m
高さは4階建てのビルに相当
「清水の舞台から飛び降りる」という言葉がありますが、成就院に残る「成就院日記」によると、148年で234件の「飛び落ち」があったとのこと
「飛び落ち」となっているのは、願をかけているからのようです😅
死亡者が後を絶たないため、明治5(1872)年に京都府が禁止令を出したということです
(ニッポンを解剖する!京都図鑑参照)

再訪した時撮った階段からの足元


足元が段々になっていることが分かります


ここからは9日のもの






舞台から見た子安塔

本堂を抜けると、朱印所があります
書き手の方は4名ほどおられたでしょうか!?
前に西国の御朱印は頂いてたので、御詠歌や洛陽霊場の御朱印を頂きました
(御朱印、御詠歌全て300円)
西国霊場・御詠歌(第16番)
御朱印は以前頂いていたので、総集編ではまとめて載せたいと思います

西国霊場の用紙も頂きました

 散華と

ちなみに以前頂いている西国霊場の御朱印
西国三十三所霊場・第16番

洛陽霊場の御朱印(第12番)
洛陽霊場の御詠歌のことを聞いてみましたが、洛陽霊場は御詠歌を書かないという取り決め?になっているようなことを言われていました
なので御詠歌はありません知らんぷり

次回も清水寺のことが続きます
では、またぁ〜(* ̄∇ ̄)ノ