高倉天皇と小督局ゆかりのお寺(清閑寺) | レレレの行ってみたらこんなとこ!

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散策で主に史跡、神社仏閣を巡ってます
各地のガイドマップに載っている史跡、山川出版社から出ている歴史散歩シリーズの画像補完計を秘かに計画しています(笑)
ドライブの一助になれば幸いです(^^)
愛書家(読書家とは違います(笑))なもんでたまに本のことも書いてます

前回からの続き(10月23日のこと)になります
一回にまとめたので長くなります🙇

前回の天皇陵の先に参道(階段)があります

そこを上っていくと、すぐに山門

清閑寺(せいかんじ)
住所・京都市東山区清閑寺歌ノ中山町3
御本尊 十一面千手観音
拝観料 100円
駐車場は見当たりませんでした

駒札(本堂の前にあります)

 清閑寺
 歌乃中山と号する真言宗智山派の寺である。ここから清水寺までの山路は、かつては歌の中山と呼ばれる名所で、桜や紅葉の美しさから数多くの歌が詠まれた。
 延暦21(802)年に、天台宗の寺として比叡山の紹継(しょうけい)法師によって創建され、一条天皇の時代(986〜1011)に勅願寺となった。
 「平家物語」の悲恋で知られる高倉天皇と小督局(こごうのつぼね)ゆかりの寺で、平清盛の娘を中宮とする高倉天皇に寵愛されたために清盛の怒りに触れた小督局は、宮中を追われてこの寺で出家させられたと伝えられている。天皇は深く心を痛め、自分が死んだら局のいるこの寺に葬るよう遺言を残し、21歳の若さでこの世を去った。背後の山に、六條天皇と高倉天皇の御陵があり、高倉天皇陵の傍らには、天皇の死後、生涯にわたって菩提を弔ったといわれる局の墓がある。
 庭にある大きな石からは扇を広げたような形で市内が一望でき、その石が丁度扇の要の位置に当たることから「要石」と呼ばれ、願いをかけると叶うといわれている。
 かつては法華三昧堂や宝塔などが並んでいたが、現在は菅原道真が梅樹から彫ったという本尊・十一面観音像を安置する本堂を残すこみである。
 京都市
(原文のまま)

山門くぐってすぐに見えるのが

小督の局供養塔

駒札

 謠曲「小督」と清閑寺
 「歌の中山清閑寺」といわれるこの清閑寺は真言宗智山派に属し、延暦21(802)年紹継法師の創建によるものですが、古典「平家物語」に書かれた小督局が、平清盛のため尼にさせられたところといをれています。小督は高倉帝の愛をうけましたが、帝の中宮建礼門院が清盛の娘だったため、嵯峨に身を隠したのは有名で、これをもとにつくられたのが謠曲「小督」です。
 しかし帝の心は変わらず「私が死んだら、小督のいる清閑寺へ葬ってくれ」と遺言され養和元(1181)年亡くなられたので、この寺に埋葬されたといわれます。
 寺の背後の山中に御陵があり、傍らに小督の墓があり、またこのうらにある宝筺印塔は、供養塔だといわれています。山号の「歌の中山」は清水寺から清閑寺に至る山路をいいます。
 謠曲史跡保存会
(原文のまま)

正面から

その辺りの苔も綺麗でした照れ

山門くぐってすぐ左にある駒札

解説のアップ
 黒田清輝「昔がたり」
「昔がたり」の着想を得たのは帰国直後の京都旅行(1893年)のことであった。清水寺付近を散策していて高倉天皇陵のほとりで清閑寺に立ちより寺の僧が語った小督悲恋の物語を聞いたとき黒田清輝は現実から離脱するような不思議な感動におそわれたという作品は清閑寺山門から高倉天皇陵歌の中山道を背景に描かれ1898年に完成した作品が焼失してしまった現在図の全体を知るにはこの下絵しかない
(原文のまま)

その辺りから見ると、この頃は紅葉はまだまだ先だったけど、綺麗だろうなと想像させる佇まいがありましたおねがい

左手に鐘楼

その前に駒札
 清閑寺茶室「郭公亭」
 清閑寺は幕末に清水寺成就院住職の月照上人と西郷隆盛がしばしば勤皇の謀議をした所で安政5(1858)年月照が水戸藩の密使降下に尽力し幕府から狙われた時ここで西郷と密かに会い都落ちの計画が茶室「郭公亭」で行われた
 「郭公亭」は鐘楼堂の上方にあったが荒廃によって平成3(1991)年に惜しくも解体された。
(原文のまま・一部年号補足)

それに纏わる石碑もあります
大西郷月照王政復古謀議舊(旧)趾

本堂横の奥にも飛び石が続いています

その入り口にある石燈籠のとこにこんなものが爆笑

奥にはお不動さま(成田山不動尊ご分霊)がおられました

本堂

その前には小督剃髪の本堂の碑

駒札

剃髪させられる小督
入道清盛の一喝で「小督めを御所から引き出し、どこでなと頭をまるめて尼にしてしまえ。そのうえは、追放じゃ。二度と内裏のあたりに近づけないぞ」と厳しい達し。
六波羅から差遺された武士二人が、小督を引っ立てて、某の僧を頼んで、出家得度をさせてしまった。身には、すでに薄墨の浄衣をまとう小督は、泣き崩れる。
みるみるうちに、小督のあやなす翠(みどり)の黒髪が剃り落とされて、尼前(あまぜ)姿にと早変わりしたのである。
(原文のまま)

そのから見た供養塔辺り

その横(左側)に小径がついていたのでそちらへ向かいます

小督局の解説
 小督の局(1157〜?)
高倉天皇に仕えた女房小督殿ともいう
保元2(1157)年生まれる
父は中納言正二位藤原成範
治承元(1177)年高倉天皇第一皇女範子内親王を生む
高倉天皇との愛を権力者平清盛に引き裂かれた小督は清閑寺で出家しこの地で生涯を終えた
小督の墓は高倉天皇陵の傍らにある
小督は京の都が一望できる「要石」のあたりに立ち宮中の日々を懐かしんでいたと伝えられている
(原文のまま)
小督局で思い出す場所は嵐山にもありました


そこにあったのは要石


駒札
願いあらば
  あゆみをはこべ
    清閑寺
  庭に誓いの
    要石あり
肝心の景色をアップで撮るのを忘れてました😣
右側にある木が大きくなっているためか、昔よりは扇が狭くなっているかもしれません😅

その先にも駒札
清閑寺窯発祥の地
現在京都〇〇清閑寺山・円町にあった古窯 江戸時代(1615〜1624)に清閑寺住僧・宗伯が開窯した
宗伯は京焼の名工野々村仁清の師でもあった
(〇〇の部分は読めず)
由緒書きより補足
京陶器の起源は、聖武天皇の御代に清閑寺の寺領に窯を築いて、土器を焼いたのが始まりと云われているそうです
宗伯は、この寺の僧で陶工としても著名だったということです
この清閑寺窯が南北朝時代に清水焼きとなり、続いて粟田焼きが生まれたということです

要石側から見た境内

要石から山門側を見たところにある駒札
与謝野礼厳(1823〜1898)
与謝野鉄幹の父 西本願寺の役僧・歌人
岡崎の願成寺に住む
明治27(1894)年 愛宕郡田中村に移る
29(1896)年9月に妻を亡くし  その冬清閑寺へ隠栖した。
歌を三万首近く詠んだと云われている
墓は西大谷の墓所にあり
年を経て
世にすてられし
身の幸は
人なき山の
花を見るかな
(原文のまま・一部年号補足)

その近くにある小督の桜

本堂周辺

動画も撮ってみました


本堂前から見た山門側

最後にまた本堂周辺
秋には紅葉が綺麗そうですおねがい

天皇陵の所に歌の中山の碑がありました

歌の中山
清閑寺山門より
清水寺子安の塔までの山路

すこし歩いてみます

すると?清閑寺の寺号標がありましたびっくり
ここが正規の入り口だったのか!😅

そこには六條天皇陵・高倉天皇陵参道の石碑や、石仏

道標なんかがありました

本堂横の書院?の縁側から声かけしたら、留守番の方が対応して下さり、御朱印(書置き・300円)を頂くことが出来ました

その時一緒に由緒書きもくださいました
本堂の前にも50円か100円で頂くことが出来たので、頂いていたことは内緒です🤣
駐車場が無いのは難点ではありますが、紅葉が綺麗そうなのと、歴史に関することがてんこ盛りなこちらは行ってみる価値があるのではないかと思える場所でした😊

今回は久しぶりの長編、最後まで読んで下さった方はありがとうございました🙇
この日のことは次回で終わります
では、またぁ〜(* ̄∇ ̄)ノ