幕末の京都を守った者を弔った場所(会津藩殉難者墓) | レレレの行ってみたらこんなとこ!

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散策で主に史跡、神社仏閣を巡ってます
各地のガイドマップに載っている史跡、山川出版社から出ている歴史散歩シリーズの画像補完計を秘かに計画しています(笑)
ドライブの一助になれば幸いです(^^)
愛書家(読書家とは違います(笑))なもんでたまに本のことも書いてます

前回からの続き(6月18日のこと)です
西雲院を出て、真如堂へ向かうと、その途中に会津藩士たちを弔った場所があります
會津藩殉難者墓
こちらは以前にも行っています→會津藩殉難者墓 


階段上がった左側へ行くと

そこには松平容保の像があります
松平容保(かたもり)
1836〜1893年
会津藩藩主
京都守護職
美濃国高須藩主・松平義建(よしたつ)の第6子
尾張藩主・徳川慶勝、桑名藩主・松平定敬(さだあき)は兄弟
弘化3(1846)年、会津藩主・松平容敬(かたたか)の養子となる
嘉永3(1846)年、容敬の死去により家督を継ぐ
文久2(1862)年、京都守護職に任命
慶応3(1868)年、王政復古クーデターで守護職を追われる
戊辰戦争降伏後は、因幡藩に幽人される
赦免後は日光東照宮宮司などを歴任
(朝日日本歴史人物事典参照)
上記から抜けていることの補足として
京都守護職が新設されるとき、松平春嶽から就任要請を受けました
藩財政が大変だったため、固辞したそうです
最終的には、御存じのように拝命するのですが、そうさせたのは会津藩初代藩主の保科正之の家訓によることが大きかったそうです
上記には、斗南(となみ)での謹慎のことが書かれていませんでしたが、会津藩は戦後青森の斗南へ移封されます
この時の生活は陰惨を極めたと聞きます
(幕末維新人物事典参照)

階段を真っ直ぐ行くと會津墓地の由来があります
 幕末の京都は暗殺や強奪が日常化し、徳川幕府はついに新しい職制を作り京都の治安維持に当たらせることになった。これが京都守護職である。文久2年(1862)閏8月會津藩主松平容保公は14代将軍徳川家茂から京都守護職に任ぜられ同12月24日、家臣1千名を率いて京都に到着、京都所司代・京都奉行所の出迎えを受けて本陣の黒谷金戒光明寺に威風堂々と入陣した。
 黒谷金戒光明寺は、自然の要塞になっており、御所や粟田口にも近く軍事的要衝の地であった。また、大きな寺域により1千名の軍隊も駐屯することができた。
 当時の京都は尊攘激派による暗殺の坩堝(るつぼ)と化していたが、守護職となった會津藩の活動には目を瞠(みは)るものがあり、翌年8月18日には激派の公卿を追放し、元治元年(1864)6月には守護職配下の新選組による「池田屋騒動」、7月18日19日の「禁門の変」の勝利などで治安は回復されてきた。しかしながら會津藩の犠牲は大きく、藩士や仲間小者などで戦死、戦病死する者が続出した。そこで本陣の金戒光明寺の山上に三百坪の墓地が整備され葬られた。その数は文久2年から慶応3年までの6ヵ年に237霊をかぞえ、後に慰霊碑を建立し鳥羽伏見の戦いの115霊を合祀した。
 松平容保公は孝明天皇の御信任厚く禁裏洛中を挙藩一致して六義を明らかにし、會津軍の忠誠は歴史にその名を残した。この忠烈なる真義に徹した英魂の遺徳を顕彰せんが為にこの碑に由来を誌す。

松平容保公 都の歌会にて御詠
“窓前竹”
さす月よ  うつるのみかは  友ずりの
   こえさへ きよし  窓の呉竹
(原文のまま)

墓地を出たとこに咲いていた花

会津藩に纏わる本の紹介
保科正之
初代会津藩主・保科正之のことが書かれています
保科正之は徳川忠秀の子なのですが、庶子ゆえに嫉妬深い正室・於江与(お江)から守るために高遠藩に養子として出されます
この人の家訓が幕末の会津藩の運命に関わるとは、誰も思わなかったに違いありません

幕末の会津藩
これはタイトルの通り、幕末の会津藩のことが書かれいます
どちらもまだ読んでないんですけどねf(^^;

この辺りのこと、次回も続きます
では、またぁ~(* ̄∇ ̄)ノ