伏見稲荷・内拝殿へ(内拝殿)(神楽殿)(権殿) | レレレの行ってみたらこんなとこ!

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散策で主に史跡、神社仏閣を巡ってます
各地のガイドマップに載っている史跡、山川出版社から出ている歴史散歩シリーズの画像補完計を秘かに計画しています(笑)
ドライブの一助になれば幸いです(^^)
愛書家(読書家とは違います(笑))なもんでたまに本のことも書いてます

前回からの続きです
令和2年5月30日のことになります)

東丸神社の隣側です
なんかいろんな物?がありました
手水鉢

こんなとこに街灯

その横の駒札を見るとなんじゃもんじゃの木とあります
学名 ひとつぱたご
モクセイ科の落葉高木
幹は高さ30メートル、径は60センチメートルなるものがある。
葉は楕円形か卵型で鈍頭全緑であるが、若木のものには重鋸葉があり、下面の中脈下部には褐色の柔毛がある。
五~六月頃小枝に円錐状集散花序を頂生する。
花冠は白色で四辺に深く裂け裂片は筒部より長い。
二本の雄しべがある雄花と一個の雌しべがある雌花が異株にできる。
果実は楕円形で黒く熟する。
日本では本州木曽川の流域と九州(対馬)に知られている珍しい木である。
(原文のまま)

その先に門があります 
お茶屋

駒札
指定名勝 伏見稲荷大社の下屋
 ここは、かつて伏見稲荷大社の参道沿いに建ち並んでいた社家のうち、松本家の宅地跡に当たる。明治維新後には民間所有となった。
 大正6(1917)年に料亭の開設を目指して建てられた「松の下屋」は、良質な材を用い、意匠・技術の両面において優れている。表門の東側には、江戸前期の「御茶屋(重要文化財)」が建つ。結果的に料亭は開設されず、大正15(1926)年に伏見稲荷大社の敷地と統合された。
 大正8(119)年建築の瑞芳軒は、昭和12(1937)年に社務所の庭から移築された上質な茶室である。「営繕関係一件綴」には、「茶席の配置と造庭ハ一切を挙げて茶道の巨匠に委嘱し(藪内紹智ヲ適当ト認ム)」とあり、十一代藪内透月斎の関与が推定される。
 庭は、「表玄関の庭」「御茶屋の北・東庭」、瑞芳軒と供待を擁する「築山・露地」「松の下屋の西庭」「中庭」「園池・流れ」「土蔵廻りの庭」の七つからなる。数度の改修を経つつも、全体が一体となった奥行きのある複雑な構成となっている。
 明治期以降の伏見稲荷大社と旧社家町の歴史、さらには近代の建築と庭の歴史を辿るうえで重要な意味を持つ。
(原文のまま)

拝観出来ないようなので、Uターン

戻って、内拝殿(ないはいでん)へ向かいます
元禄7(1694)年に本殿につけ加えられた唐破風朱塗向拝を、昭和36(1961)年に本殿から切り離して内拝殿につけて、現在の形となる
(週刊 日本の神社参照)

内拝殿前のキツネさん
右側は尻尾に宝珠

左側は尻尾に宝珠と、口に稲穂

内拝殿から、外拝殿を望む


内拝殿の右手にあるのは神楽殿
明治15(1882)年に能楽殿として建造される


本殿の彫刻

権殿(重文)本殿

権殿を正面から

解説
構造 五間社流造 檜皮葺
建立 寛永12年(1635)
この社殿は「明応遷宮記録」(1499)によると「御殿ノ北ニハ仮殿 若宮ト云也是ハ遷殿トテ本社造営ノ時、此宮へ御ウツリ也 為其仮殿ト申ス也」斗有、この頃には建立されていた様である。
現在の建物は、寛永12(1635>年に再興されたもので、昭和34(1959)年に東北側に移築された。
(原文のまま)

本殿の後ろ側にも遥拝所のようなものがありました
これは奥宮のためのものか?稲荷山のためのものかもしれないですね⁉

内拝殿の左手に授与所があります
そちらで頂いた御朱印です

入ってた袋
こちらも書き置き対応でした😅

先へジワジワと進んで行きます(笑)
では、またぁ~(* ̄∇ ̄)ノ