東福寺周辺散策(南明寺)(藤原俊成墓)(阿保親王塚)(呉竹庵) | レレレの行ってみたらこんなとこ!

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散策で主に史跡、神社仏閣を巡ってます
各地のガイドマップに載っている史跡、山川出版社から出ている歴史散歩シリーズの画像補完計を秘かに計画しています(笑)
ドライブの一助になれば幸いです(^^)
愛書家(読書家とは違います(笑))なもんでたまに本のことも書いてます

前回からの続きです
令和元年11月3日のことです)

光明院から更に東へ向かいます
すると左手に山門が
南明院
住所・東山区本町15丁目
東福寺塔頭
御本尊 釈迦如来
こちらは入れそうな感じじゃなかったので、前を通ってるだけ(前もそうでした😅)
でも、この石碑を見てるから気になってるとこですニヤリ
応永21(1414)年、足利義持が創建
開山 東福寺111世業仲明紹
徳川家康の正室・朝日姫を当院に葬って以後、徳川家の援助を受ける
(京都大事典参照)

その前の道をまだまだ東へ行くとこんな石碑を発見
五條三位俊成卿 兆殿司墓道

その先へ行くと今度は夜泣地蔵尊参道
この先へ行くと、右手に階段があり墓場になってました😅

その奥に塀に囲まれた場所があります
先ほどと同じ墓を示す石碑も入り口にあります
五條三位俊成卿 東福寺兆殿司墓
住所・伏見区深草願成町36-1

階段を上がると、この様になってます
左側奥・藤原俊成の墓と伝わるもの
左側手前・浄如尼の墓と伝わるもの
正面は南明院開山の業仲明紹の墓
右側は南明院二世の吉山明兆(きちざんみんちょう)
藤原俊成
1114~1204年
平安・鎌倉時代の歌人
藤原定家の父
千載和歌集の選者

浄如尼
冷泉家ゆかりの、俊成の娘とも云われる尼僧

業仲明紹
解説は前記事参照してください(..)

吉山明兆
1352~1431年
南明院二世
画僧として名をはせる
東福寺の殿司という役にあったため、兆殿司(ちょうでんす)とも呼ばれたそうです
東福寺・三門の記事でも出ましたが、大涅槃図を描かれた人物です
(ネットと日本歴史人物事典参照)

墓地の入った右手にあった夜泣地蔵尊
どうもこの墓地は南明院の墓地のような感じですσ( ̄∇ ̄;)

そこから下っていき(西へ向かってます)、グネグネ曲がっていくと囲われた場所があります

阿保親王(あぼしんのう)塚呉竹庵(ごちくあん)
住所・伏見区深草正覚町6-37

駒札
 伝阿保親王塚
 阿保親王(792~842年)は第51代平城天皇の第1皇子、桓武天皇の孫親王にあたります。
 弘仁元(810)年都を奈良に戻そうと企てた「薬子の変」に連座して、九州大宰府権師に左遷され、罪の許されることを祈願する毎日でした。嵯峨天皇によって京都への帰参が叶うと、願が成就したとして、この付近に願成就寺というお寺を建立しました。東福寺塔頭の願成寺やこの近くの願成町の名前の由来となっています。明治初年まで東山区本町21丁目は阿保(安保)町と呼ばれていました。
 親王の第五皇子に歌人で有名な在原業平(825~880)年がいます。
 親王を遠祖とする毛利家は江戸時代に親王のお墓探しが行われその結果、今の芦屋市打出の親王塚古墳が阿保親王の陵墓として制定されました。そこは宮内庁がお守りしています。その間長州藩京屋敷から留守居役がこの「お塚」にも調査に来ています。
 長州藩に提出された文政元(1818)年旧暦6月付、阿保山願成寺より「奉願口上覚」には、親王の御旧跡を30間(約54m)四方としてお殿様にも
ご通行の時は参詣ください」と記しています。
正覚町歴史愛考家有志

 呉竹庵
 高島屋は明治45(1912)年この地で別荘建築に取り組み、大正3(1914)年に完成したこの別荘は、山県有朋によって「呉竹庵」と命名されました。
 呉竹庵は敷地3590坪で、建築は竹中工務店が請け負い表門は桂離宮を、玄関と正座敷は大徳寺孤篷庵を模したと言われます。この呉竹庵は高島屋の迎賓館としての役割も持ち、大正・昭和天皇の即位の礼の折には、京都に滞在された皇族華族の方々の宿として提供されました。
 呉竹庵の杉戸には日本画家の竹内栖鳳横山大観の絵が描かれ、現在は大阪の高島屋史料館に所蔵されております。
 この塚の前の弓形の石は呉竹庵の池の石橋だったとも言われております。
高島屋
(原文のまま)

小さな塚でした

この後、伏見街道へ戻り、北上して戻って行きます
駐車場へ行くまでももう少し寄り道をしますニヤリ
では、またぁ~(* ̄∇ ̄)ノ