次に行ったのは東福寺の塔頭で、今回の京の冬の旅で公開されている即宗院です
今回も画像多かったので2部になりますf(^^;
このような案内板が、寺務所の奥にあります
画像の左下に見えるのは、こんな石碑
誰かの墓所のようです
参道歩いていくと、こんな看板が!
このお寺の方丈は国宝なんだそうです!!
今回は公開されてませんが(^^;
そして歩いてると、ここにも橋がありました!
これが東福寺三名橋の三つめ、偃月橋(重文)
前を歩かれてるのは警備員さん(笑)
この橋は秀吉の妻である、ねねが架けたものだそうで450年くらい経ってるそうです
そしてここを篤姫も渡られたんじゃないかというような話もされてました♪
橋から見た景色
そこを渡ると即宗院で、庫裡(重文)の玄関となるようです
庫裡の玄関の右手に今回入場出来る山門があります
手前の左手が受付
この山門は仁王門でした
見た目普通の山門なんですが、門の両側に仁王像(石像)がありました
これもちゃんと阿吽になってるという(^ψψ^)
面白いことが解説に書いてあったので、書き出しておきます
東福寺は「大本山」であるため、本山の三門(山門)に仁王像(重文)があり、各塔頭の山門には仁王像を安置しないのが本来である。然るに、塔頭である即宗院だけに安置されており、即宗院の力と、江戸時代の薩摩藩の財力によるとうかがえる。
石造りの仁王像は、薩摩地方(鹿児島)で多く見られる像であることから、薩摩からの伝来であると言われている。
ということだそうで、ここからも薩摩藩の強い結びつきを伺うことが出来ます
門をくぐると、道が二手に別れています
左が堂内へ、右は庭園の外周や山へと続きます
もちろんまずは左へ
駒札
これによると即宗院は、南北朝時代に島津氏久(六代目)の菩提寺として創建されたとあり、薩摩藩と強い繋がりがあるのも納得です
(゜-゜)(。_。)(゜-゜)(。_。)
会場になってるのは、書院ってとこでしょうか!?
玄関から見た庭園
こちらは庭園は撮影することが出来ます♪
ガラス越しではありましたがww
確か上記までが手前の建物から
渡り廊下を渡り
確かこの手水鉢が250年前のもの
次の建物から見た庭園(確かばかりですが)
こちらでは私見でも書きましたが、ご住職が話をしてくれました
残念ながら始めから聞くことは出来なかったのですが、その中に展示してある書などの解説をしてくれたのは面白かったです
西郷と徳川慶喜の書いたものがあり、西郷は野に下り若くに死に、慶喜は余生を趣味人として70歳から生きていましたが、西郷は納得する死に方だったんじゃないか!?と
長く生きていても、慶喜はじくじたるものがあったんじゃないだろうかと人の生きざまということを二人の生き方を引き合いに出されて語られたのは説得力がありました
西郷が書いたという掛け軸もありました
これは西郷が野に下ったとき、お金が無くそれを見かねた勝海舟がお金をあげるのは失礼だからと、書を書けばそれにお金を払うからというようなことがあったのでは!?という話もありました
これも裏話的で面白かったし、凄く歴史を身近に感じることが出来ました!
裏話と言えば、西郷が清水寺・成就院から山のすそのを忍んでやってきたんじゃないかという話や、篤姫が江戸へ行く途中に寄られたような話もされ、今回行ったとこでは一番幕末&明治維新を感じられる場所でした
庭園は、平安時代後期に関白藤原忠道(近衛家)が御所の東御堂を建立し、忠道の子・兼実(九條家の始祖)が関白を辞したとき、山荘「月輪殿」としたそうです
今回頂いた御朱印がこの文字なのは、そういうことのようです
ちなみにこの場所に法然上人も来られて、兼実に法話した真正な聖地であることが「法然上人絵伝」にも描かれているそうです
そんないろんな話や他にもいろいろ聞けて良かったです♪
ご住職がいつも話されるとは限りませんが、機会があればぜひ聞いてみられては!?と思いました
ちなみにそのご住職(もう引退されてるみたいでした)が、庭園の剪定なんかもかなりされてるということでした
前編だけでも長くなりましたが、最後まで読んで頂いた方ありがとうございました
(..)
即宗院は後編に続きます
この橋は秀吉の妻である、ねねが架けたものだそうで450年くらい経ってるそうです
そしてここを篤姫も渡られたんじゃないかというような話もされてました♪
橋から見た景色
そこを渡ると即宗院で、庫裡(重文)の玄関となるようです
庫裡の玄関の右手に今回入場出来る山門があります
手前の左手が受付
この山門は仁王門でした
見た目普通の山門なんですが、門の両側に仁王像(石像)がありました
これもちゃんと阿吽になってるという(^ψψ^)
面白いことが解説に書いてあったので、書き出しておきます
東福寺は「大本山」であるため、本山の三門(山門)に仁王像(重文)があり、各塔頭の山門には仁王像を安置しないのが本来である。然るに、塔頭である即宗院だけに安置されており、即宗院の力と、江戸時代の薩摩藩の財力によるとうかがえる。
石造りの仁王像は、薩摩地方(鹿児島)で多く見られる像であることから、薩摩からの伝来であると言われている。
ということだそうで、ここからも薩摩藩の強い結びつきを伺うことが出来ます
門をくぐると、道が二手に別れています
左が堂内へ、右は庭園の外周や山へと続きます
もちろんまずは左へ
駒札
これによると即宗院は、南北朝時代に島津氏久(六代目)の菩提寺として創建されたとあり、薩摩藩と強い繋がりがあるのも納得です
(゜-゜)(。_。)(゜-゜)(。_。)
会場になってるのは、書院ってとこでしょうか!?
玄関から見た庭園
こちらは庭園は撮影することが出来ます♪
ガラス越しではありましたがww
確か上記までが手前の建物から
渡り廊下を渡り
確かこの手水鉢が250年前のもの
次の建物から見た庭園(確かばかりですが)
こちらでは私見でも書きましたが、ご住職が話をしてくれました
残念ながら始めから聞くことは出来なかったのですが、その中に展示してある書などの解説をしてくれたのは面白かったです
西郷と徳川慶喜の書いたものがあり、西郷は野に下り若くに死に、慶喜は余生を趣味人として70歳から生きていましたが、西郷は納得する死に方だったんじゃないか!?と
長く生きていても、慶喜はじくじたるものがあったんじゃないだろうかと人の生きざまということを二人の生き方を引き合いに出されて語られたのは説得力がありました
西郷が書いたという掛け軸もありました
これは西郷が野に下ったとき、お金が無くそれを見かねた勝海舟がお金をあげるのは失礼だからと、書を書けばそれにお金を払うからというようなことがあったのでは!?という話もありました
これも裏話的で面白かったし、凄く歴史を身近に感じることが出来ました!
裏話と言えば、西郷が清水寺・成就院から山のすそのを忍んでやってきたんじゃないかという話や、篤姫が江戸へ行く途中に寄られたような話もされ、今回行ったとこでは一番幕末&明治維新を感じられる場所でした
庭園は、平安時代後期に関白藤原忠道(近衛家)が御所の東御堂を建立し、忠道の子・兼実(九條家の始祖)が関白を辞したとき、山荘「月輪殿」としたそうです
今回頂いた御朱印がこの文字なのは、そういうことのようです
ちなみにこの場所に法然上人も来られて、兼実に法話した真正な聖地であることが「法然上人絵伝」にも描かれているそうです
そんないろんな話や他にもいろいろ聞けて良かったです♪
ご住職がいつも話されるとは限りませんが、機会があればぜひ聞いてみられては!?と思いました
ちなみにそのご住職(もう引退されてるみたいでした)が、庭園の剪定なんかもかなりされてるということでした
前編だけでも長くなりましたが、最後まで読んで頂いた方ありがとうございました
(..)
即宗院は後編に続きます
そして先週は入る現場に僕だけ行かず、内勤してましたf(^ー^;
今週から数ヶ月くらい外勤
天気次第では早出じゃなくなったり、内勤になったりするかもしれませんが、ちょっと巡回はランダムになるかもしれません
また伺えるようなら帰ってからでも伺いたいと思います(..)
では、またぁ~~
では、またぁ~~