令和8年2月23日、畔上道雄著の『推理小説を科学する-ポーから松本清張まで-』という書籍を読破し | 松陰のブログ

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令和8年2月23日、畔上道雄著の『推理小説を科学する-ポーから松本清張まで-』という書籍を読破した。

アガサ・クリスティ氏などの推理小説が大好きな私ですが、推理小説におけるトリックに科学性があるのかという興味深いテーマに惹かれ購入しました。しかし購入してからかなり時の経つ古い本です。読もう読もうと思いながら他の本を優先してしまったため、古い書籍になってしまいました。推理小説におけるトリックというのは、その時代背景、特にその時代の技術水準に大きな影響を受けます。例えば、昔のような固定電話の時代と現代の携帯電話やスマホの時代では明らかにトリックが変わってしまいます。固定電話の時代では街中では公衆電話ぐらいしか連絡が取れないのに対し、携帯電話の時代には街中でも容易に連絡が取れます。そういう時代背景がトリックに大きく影響を及ぼすのです。この畔上道雄著の『推理小説を科学する』という書籍における科学的であるか否かの検証も、そういう時代背景を考慮して読みました。この畔上道雄著の『推理小説を科学する』は、昭和58年4月20日に第一刷が発行された書籍なのですが、本書内に「現在のパソコン全盛の状況を10年まえに予想した専門家は、はたしていたか。」(134頁参照)という記述があり、もうこの時代にはすでにパソコンは普及していたのだなと再認識させられました。

畔上道雄著の『推理小説を科学する』という書籍では、密室の謎(13頁参照)、アリバイの壁(43頁参照)、入れかわりの早業(89頁参照)、人間の真理について(138頁参照)、独創的なトリック(185頁参照)について、科学的に検証しています。この書籍における科学的とは何なのでしょうか?科学の根本的な考え方の一つは必然性と蓋然性であります。必然性とは常に必ずそうなるということです。リンゴが樹から落ちるように万に一つのまぎれもありません。蓋然性は科学の分野によって異なりますが、常に相当の高さが要求されます。ある場合にはそうなる、しかし、そうならぬこともあるという程度では、とても科学の真理とはいえないのです(74頁参照)。高い確率での再現性が求められます。

推理小説のトリックをどう考えるべきか。それは論理的でなければなりません。うそやごまかしは許されません。その限り、科学とマッチしないトリックは否定されるべきでありましょう(134頁参照)。その一方で、人はしばしば科学について偏見をもちます。それは数式と実験データの集積とみなされます。しかし、それこそ科学についての最大の誤解です。科学を成立させている基盤は、感性です。感性は感覚に似ています。しかし、感覚は個々人のバラバラなものに過ぎません。感性とは何かしら感覚をこえた綜合的なものです。それは理性とは明確には異なります。もっと直接的で、わかりやすくて、親しみやすいものです。人間性の本源に根ざしている重要な資質といえると述べています(98頁参照)。科学を信望し、必然性と蓋然性を重視しながら、一方で、人間のもつ驚異的な認識力や認知力を認めています。何かそこに矛盾を感じてしまいます。

この書籍では、私の大好きなアガサ・クリスティ氏(24頁参照)も紹介しています。また不朽の名作である松本清張氏の「点と線」も取り上げています。その他、江戸川乱歩氏(44頁参照)、横溝正史氏(205頁参照)、エドガー・アラン・ポー氏(35頁参照)、高木彬光氏(107頁参照)、夏樹静子氏(180頁参照)、コナン・ドイル氏(186頁参照)、エラリー・クイーン氏(192頁参照)などの著名な推理小説家の作品をピックアップしています。中でも、坂口安吾氏(171頁参照)を取り上げているのは渋い選択だと思いました。

私の記憶が確かならば、私が世田谷区の小学校に通っていた頃、最初に小学校の図書館で本を借りたのは、江戸川乱歩著の『怪奇・四十面相』だったと思います。最初に四十面相の本を読んだため、当初、怪人・四十面相だと誤認識していました。しばらくして、怪人・二十面相が正しいと気づいたことを思い出します。また、私の幼少期に父親が世田谷区二子玉川にあった映画館へ横溝正史氏の『女王蜂』という映画を観に連れてってくれた楽しい想い出があります。エラリー・クイーン氏は私の幼少期に流行った推理小説作家です。ものすごく懐かしい。エラリー・クイーン氏と言えば、Xの悲劇、Yの悲劇、Zの悲劇でしょう。そして、夏樹静子氏がそれに倣って、Wの悲劇を発表しました。

著者は先に述べたように、人間の感覚に基づく驚異の認知・認識力を重視していましたが、私は人間の認知・認識力は愚かだと思います。例えば、足が病気で足の具合の悪い若い男性Aがいたとします。若い男性Aと全く面識がなく、知り合いでも何でもないが、若い男性Aを知っている若い女性BとおばさんCとおじさんDがその若い男性Aを嵌めようとします。若い男性Aは足が病気なので、自分の足を気遣って電車内で椅子に座ろうとします若い男性なので比較的に足の病気を周囲に気づかれにくいことも誤解を生む要素です。そのことを知り、若い男性Aの行動パターンや習慣を知っているB、C、Dの三人は協力して若い男性Aを陥れます。電車内での三人掛けの長椅子の両端に若い女性BとおばさんCを座らせます。若い男性Aは足が病気なので、電車内で椅子に座ろうとします。そして、空いているBとCの間の真ん中に座ります。これは若い男性Aの足が病気だという情報と習慣を知っていれば容易に誘導できる罠です。そして、ただ、横に座っただけなのに若い男性Aと若い女性Bは一緒に座っているので知り合いだと周囲を誤解させる情報を若い男性Aとは全く面識がなく、知り合いでも何でもないが、若い男性Aを知っているおじさんDが流布すれば、それで全く面識がなく、知り合いでも何でもない若い男性Aと若い女性Bは知り合いだというふうに誤解させることができるのです。若い男性Aは若い女性Bのことを知りませんので、挨拶などをするわけがありません。知らない赤の他人なのですから。それをおじさんDが若い男性Aは挨拶もしないけしからん奴だと言えば、挨拶をしなかったこと自体も誤魔化せ、若い男性Aを悪者に仕立てることができるのです。普通、知らない人間に挨拶などはしないものなのに(会社内では全く知らない人でも礼儀として挨拶をしますが、電車内で知らない人には挨拶はしません)。文章にすると、こんな陳腐なトリックで騙されるものかと思う読者も多いでしょうが、これで騙される愚かな人間が多いのが現実で、人間の認識力なのです。人間の認知・認識力を過信するのは危険なことだと思います。このトリックに一番似ているのは、全員が犯人だったアガサ・クリスティ氏の『オリエント急行殺人』ではないでしょうか。

フリーマン・ウィルス・クロフツ氏の『樽』(216頁参照)はアガサ・クリスティ氏の『ABC殺人事件』を、ロス・マクドナルド氏著の『ウィチャリー家の女』(114頁参照)は、アガサ・クリスティ氏の『検察側の証人』を、坂口安吾氏の『不連続殺人事件』(171頁参照)は、アガサ・クリスティ氏の『ナイルに死す』と『白昼の悪魔』を想起しました。

 

現在は警察にも科捜研という部署があり、より科学的な捜査が行われています。それに伴い、現代の推理小説も科学的な見地からのトリックが求められることでしょう。この書籍では、推理小説のトリックを科学的な見地から検証するという時代を先取りする興味深い記述をしていました。読破し終え、とても面白い書籍だと思いました。ちなみに私が推薦する推理小説は、アガサ・クリスティ氏の『検察側の証人』です。