齋藤孝訳・福澤諭吉著『現代語訳・学問のすすめ』という書籍を紹介する。  書店に積まれていた齋藤 | 松陰のブログ

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齋藤孝訳・福澤諭吉著『現代語訳・学問のすすめ』という書籍を紹介する。

 書店に積まれていた齋藤孝訳・福澤諭吉著『現代語訳・学問のすすめ』という書籍を見て、そう言えば学校では学び、よく知っているのに、実際、『学問のすすめ』は全部を読んでいなかったなと思い、購入しました。かの福澤諭吉大先生の書籍ですから、どんな人生の指南書なのだろうと大きく期待していました。まあ、感想は言わないことにします。

 この書籍は一言で言えば、人間が生きるに当たり、どう生きなくてはならないかということが書いてある書籍です。ただし、この書籍の中に、「そもそも孔子の時代は、明治からさかのぼること二千余年、野蛮で未開の世の中だったので、教えの趣旨もその時代の風俗人情に合わせてある。当時、民心を維持していくためには、あまりよくないやり方と心では知りつつも、このような方便をとるしかなかったのだろう。もし、孔子がはるか後世のことも洞察できた真の聖人ならば、本人だって、この方便は方便であって、心から最上の手段だと思っていたわけではあるまい。だから、後世、孔子を学ぶ者は、当時の時代状況を考え合わせて、その教えを取捨選択しなくてはいけない。二千年前の教えをそのまま引き写しにして、明治の時代に実行しようとする者などは、話にならない(169頁参照)」とあります。『学問のすすめ』は1872(明治5)年から1876(明治9)年にかけて全十七編の分冊として発行され、1880(明治13)年に出版された書籍(3頁参照)です。2011年の現代人が読むには、先に述べた孔子の例のように、その教えを取捨選択しなくてはいけないように思えます。ちなみに私は孔子を尊敬していますし、現代でも充分に活用できると考えています。

 「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」は有名。つまり、天が人を生み出すに当たっては、人はみな同じ権理(権利)を持ち、生まれによる身分の上下はなく、万物の霊長たる人としての身体と心を働かせて、この世界のいろいろなものを利用し、衣食住の必要を満たし、自由自在に、またお互いに人の邪魔をしないで、それぞれが安楽にこの世を過ごしていけるようにしてくれているということです(9頁参照)。では、どこで人間に差違が発生するのでしょうか。それは学ぶか学ばないかによってできるのです(10頁参照)。学問をするには、なすべきことを知ることが大事です。人が生まれた時には、何にも繋がれず縛られず、一人前の男は男、一人前の女は女として、自由であるけれども、ただ自由と言って「分限(義務)」を知らなければ、我儘放題になってしまいます。その分限とは、天の道理に基づいて人の情にさからわず、他人の害となることをしないで、自分個人の自由を獲得することです(13頁参照)。自由には必ずそれに付随して義務が発生するものです。

 また、この書籍の中で、「この『学問のすすめ』という本は、もともと民間の読み物、あるいは小学校で使う本として書いたものなので、初編から第二編、第三篇のあたりまでは、なるべく簡単な言葉を使い、文章を読むやすくすることを中心に考えていたが、第四篇となって、少し文体を変え、難しい言葉を使ったところもある(64頁参照)」とあります。本当なのだろうか?小学生に権利や義務、政府と人民の関係、日本人の卑屈さ、フランスの独立等々を教えていたの?明治時代の小学生は恐ろしくレベルが高かったのですね(笑)。

この書籍における現代においても通じる普遍的なものとして、まず「信じることには疑いが多く、疑うことには真理が多い(190頁参照)」ということがあります。コペルニクス的転回を例に挙げ、既存の知識を疑い、新たなモノの見方を発見することの重要性を説いています。信じる、疑うということについては、取捨選択のための判断力が必要です。学問というのは、判断力を確立するためにあるのです(193頁参照)。また、バランスを取ることの重要性も説いています。議論と実行とは、少しも齟齬しないよう、間違いなくバランスを取らなければなりません(210頁参照)。そして、福澤先生はこの書籍の中で世の中を悪くするものとして、上下貴賎の名分(139頁参照)と怨望(165頁参照)の害悪を注意しています。

この書籍の中に「たとえば、自分のお金を使ってすることなら、酒や女遊びにおぼれてやりたい放題やっても、自由であるからかまわない、というように思えるかもしれないけれども、決してそうではない。ある人がやりたい放題やるのは、他の人の悪い手本になって、やがては世の中の空気を乱してしまう。人の教育にも害になるものであるから、浪費したお金はその人のものであっても、その罪は許されないのだ(13頁参照)」とあるではないですか。浪費する男よりも影響力のある書籍やメディアはもっと良い手本を示すべき。福澤先生ならば私の言っていることは分かってもらえるはずです。真の人格者というのは、私のような若輩者に指摘される前に自分を律しているものです。

 福澤先生は書籍の中で「ひどい政府は愚かな民が作る(18頁参照)」と述べています。政府は国民を映す鏡。国民の質の悪化と共に政治も悪化するものです。国民の品位と質の向上こそが政治の質を向上させる道なのです。