織田正吉氏著の『ジョークとトリック』という書籍を紹介する。 人間の判断基準である価値体系は、時 | 松陰のブログ

松陰のブログ

ブログの説明を入力します。

織田正吉氏著の『ジョークとトリック』という書籍を紹介する。

人間の判断基準である価値体系は、時として錯覚や錯誤を引き起こすもととなります。先入観が錯覚や錯誤を引き起こす例え話はたくさんあります。場面は夜のビル。二人のガードマンが見張りをしています。一人は東を向き、一人は西を向いています。一人のガードマンがもう一人のガードマンに「君の上着の上から二つ目のボタンが外れている」と言いました。どうして分かったのでしょうか?二人のガードマンは互いに向かいあって立っていたのです。一人が東、一人が西を向くという場合は二通り考えられるはずです。背中合わせになる場合と向き合う場合です。東と西という反意語、ガードマンの夜の警備という言葉によって、この問題の聞き手は、二人は背中合わせに立っていると思い込んでしまいます。故に錯誤を起こします。ではもう一問。牧場に一本の杭が立っています。そこに一頭の牛がいます。牛の首には3メートルのロープが付いています。牛の周辺には牧草はなく、牧草が茂っているのは牛のいる場所から5メートル先です。空腹の牛はどうしたでしょうか?答えは「牛は5メートル先まで歩き、牧草を食べた」のです。牛の首にはロープは付いていますが、杭にくくりつけてあるとは言っていません。しかし、無防備にこの問題を出題された人は、「杭」「牛」「ロープ」という単語を並べられただけで、無意識のうちに杭にくくりつけられた牛を頭の中に描いてしまいます。こういう問題は、いかに私達が先入観や固定観念に支配されやすいかを教えてくれます(19頁参照)

一つの言葉が二様の意味を持つ場合も誤解を招きやすいものです。一つの言葉が二様の意味を持つことを両義性あるいはダブル・ミーニングと言います。地口は単純な音の一致によってもともと別の言葉を結び付けるものであるのに対して、ダブル・ミーニングは同一の言葉が二通りの意味を持つ場合を言います。「結構です」という言葉はその代表的な例です。「結構です」は「必要ありません」と否定の意味にも使えれば、「よろしゅうございます」という肯定の意味にも用いります。勿論、抑揚や前後の言葉からどちらの意味に使われているか汲み取ることはできますが、間違えられる場合もないわけではありません。「待ってました」というのは芸人などが舞台に立った時の客席の掛け声です。しかし、落語が一席を終わって高座で演者が頭を下げた時、この声を掛けたとすると、意味は正反対になります。文字で表現する場合もこの種の多義性はよくついてまわります。「日中」は昼間、日本と中国どちらともとれるし、「生地」は「キジ」「セイチ」と読み方によって意味が変わります。「三分」は「サンプン」「サンブ」、「下手」は「ヘタ」「シモテ」、「末期」は「マッキ」「マツゴ」、「大家」は「タイカ」「オオヤ」で全く異なるのです。ある新聞の家庭欄の見出しに、「実は米に漬ける」というのがあり、織田正吉氏は「ジツは」と読んだようですが、本文を見ると植物の「実(み)」のことだったという体験があったそうです。心理学者エドウィン・ボーリング氏によって1930年に紹介されたヒル氏の漫画「家内と義母」というのがあります。老婆の鼻梁の線を若い女性の横顔として見ると、老婆の目は女性の耳に変わります。老婆の口は女性の首飾りであり、女性の鼻は老婆の右目の下のたるみでもあります。このような図を多義図形と呼んでいます。言葉にも絵と同様、先に挙げたような多義図形があるのです(127頁参照)。

ダブル・ミーニングが得られる教訓は、意図的に誤解させたり、情報操作することの可能性です。自分の都合のよい局所だけを見せられると、全体の本当の意味が分からなくなってしまうということ。気をつけなくてはならない事実です。