長谷川俊明氏著の『訴訟社会アメリカ』という書籍を紹介する。 アメリカと日本では訴訟に対する考え | 松陰のブログ

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長谷川俊明氏著の『訴訟社会アメリカ』という書籍を紹介する。

アメリカと日本では訴訟に対する考え方が違います。その違いを教え、文化差から生じるリスクへの対応を述べているのが長谷川俊明氏著の『訴訟社会アメリカ』という書籍です。

長谷川俊明氏は、以前、読んだアメリカのPL(製造物責任)訴訟のことを扱った本の中に、アメリカでは誰もがすぐに「裁判に訴える」ことを口にするので、“スー族”というあだ名さえあると書いてあったことを、自らの訴訟体験から、まさにその通りだと感想を述べています。アメリカ人は、日本人と比べて格段に権利主張が厳しく、好戦的に見ることがあります。相手かまわず裁判に訴えたり、強引に自己の主張を通そうとするところを見ると、やはりそうなのかと感ずることがあるが、ひるがえってよく考えてみると、それは「自己防衛的」本能からくるのではないかと思うところがあります。その昔、開拓者達は、厳しい自然の中で独立で生活しながら、他方で中央権力の介入を嫌い極端な個人主義を育んでいったといわれています。町の秩序を破るならず者が現れれば、住民達が自ら立ち上がってこれと闘おうとします。一人一人の権利や財産についても同様に、アメリカ人は絶えず権利主張を欠かさず、自ら大切に守っていかなければならないということが身に染みてよく分かっています。それが、裁判その他における時に“好戦的”とも思える行動となって示されるように思われます(4頁参照)。社会の成り立ちからして大きく異なるため、アメリカと日本の法制度とその内容に差が生じるのは、当たり前と言えば当たり前です。その違いは、背後にある法文化ないしはアメリカ人との法意識の違いです。アメリカ人の社会にとって法とは何かと言えば、それは社会の秩序を保ちまとめ上げていくために不可欠な手段であったに違いありません。歴史的にみて、異民族をその社会に包含するようになったというよりも、最初から様々な異民族同士が集まってつくった社会がアメリカという国です。その意味で、古代ローマ帝国や古代漢帝国よりもさらに厳しく、また、西欧社会の中でもとりわけ極端な形で、法を尊び優先させてきたのがアメリカであるといってもいいでしょう(10頁参照)。

アメリカ合衆国の法制度の基礎は、イギリスから受け継いだものです。概括的に「英米法」と呼ばれることもありますが、イギリスの法体系は、コモン・ローと呼ばれ、かなり特色のある存在です。コモン・ローは、大陸法と並び自由世界を二分する法体系です。この場合の「大陸」とは、イギリスから見たヨーロッパ大陸のことであり、フランスやドイツを中心とする諸国を指します。大陸法の源は、あの偉大なローマ法にあります。西暦528年から534年にかけ、東ローマ帝国のユスティニアヌス大帝が、ローマの法源を編纂させ法典化しました。これが、中世には『ローマ法大全』の名で呼ばれるようになりました。ローマ法は、中世に一時途絶えたようになりますが、近代になって、フランスとドイツを中心とする西欧諸国において蘇りました。「法の世界におけるルネッサンス」とも称される出来事でありましたが、近代化されたローマ法という意味でシビル・ローともいうのは、そのためです。ヨーロッパ諸国の法制度は、多かれ少なかれローマ法の影響を受けています。ところが、ヨーロッパ主要国の中でもイギリスだけはやや異なっていました。それには、同国とヨーロッパ大陸とを物理的に切り離したドーバー海峡の果たした役割も少なくなかったと言われています。ゲルマン諸民族の中には、海を越えてイギリスに渡った部族がいました。アングル族、サクソン族などです。彼らは、ヨーロッパ大陸から海という障壁に守られたイングランドの地でゲルマン民族固有の法文化を遺すことになります。これら諸部族に共通の法という意味でコモン・ローと呼ばれるようになったとの説が有力です。コモン・ローはゲルマン法の一支流であるところのアングロ=サクソン法が、イギリスにおいて間断なく行われ培われてきた法体系です(14頁参照)。

大陸法と比較してみた場合のコモン・ローの特色は、慣習法=判例法という点にあります。大陸法においては、『ローマ法大全』以来の伝統から、主要な法分野に法典すなわち制定法をつくります。大陸法系の流れを汲む日本に、憲法、民法、刑法、商法といった法典があるのは、そのあらわれといってよいのです。対するコモン・ローは、慣習法をもとにしており、法典はつくらないのを原則とします。判例法主義の下では、裁判官が具体的なケースについて判断を下すと、それが先例として蓄積されていきます。その後、同一または類似の事件を処理する場合には、こうした先例に準拠しなければならないものとされます(これを先例拘束の原理と言います)。こうして、経験主義的に判例を積み重ねていって法を形成するのです。判例は裁判官をはじめとする実務法曹が、訴訟の場を通じて生み出すものでありますから、コモン・ローはすぐれて司法的で訴訟中心の法体系ということができます(17頁参照)。

長谷川俊明氏著の『訴訟社会アメリカ』という書籍では、実例として、テキサコ対ペンゾイルの買収に係わる訴訟、著作権の訴訟、IBMの知的所有権に係わる訴訟、損害賠償訴訟、マンビル社のPL訴訟、ボウスキー事件というインサイダー取引事件などを挙げています。アメリカでは、「アンビュランス・チェイシング」という言葉があります。アンビュランス・チェイシングとは、弁護士が仕事にありつくため、救急車を追いかけることです。救急車を追いかけて行けば必ず事故現場に遭遇することができ、加害者、被害者などの「潜在的事件依頼者」にいち早く会うことができるというわけです。もちろん、アメリカで民事訴訟担当の弁護士全てが、このような方法で仕事をしているわけではないし、実際に救急車の後を追いかけたという話を聞いたことも、また、追いかけているところを見たこともありません。弁護士大量排出国のアメリカで「はやらない弁護士」がなりふり構わず仕事を求めて世界中を駆け回ることを「アンビュランス・チェイサー」というのです(106頁参照)。ここまで行くと、何のための法律なのかという疑問さえ生まれ、本末転倒な気もします。しかし、問題はそんなに単純ではありません。アメリカのように訴訟が多発すれば、非常に息苦しい社会になります。何でもかんでも法律で解決などという風土が充満すれば、当然、人間関係にも影響するでしょう。アメリカの商品の取り扱い説明書がものすごくブ厚いのは、訴訟を起こされない(訴訟を起こされても説明責任を果たしていることを示す)ためだと言われています。私も日本が訴訟社会になることを危惧しています。従来、日本はアメリカのように何でも訴訟を起こすということではありませんでした。聖徳太子の「和を以って貴しとなす」を美徳とし、極力、当事者間での解決を目指していました。ただし、日本の方が必ずしも良いとも言えない部分もあります。当事者間での解決ということは、当事者間での力関係によって解決してしまうこともあり、権力を握っている人間が有利で、弱者が不利益になる可能性が高いことを示唆します。泣き寝入りの例も少なくありません。そういう意味では、個人の権利が法律によって担保されているというアメリカの法社会にも優れているところはあります。また、日本はアメリカに比べて訴訟が少ない分、判例が少なく、法の解釈が確定しづらいという面もあります。困難なことですが、日本とアメリカの両方の良さが巧みに折衷された法社会が実現できることを願っています。