菅野盾樹著『メタファーの記号論』という書籍を紹介する。 菅野盾樹氏著の『メタファーの記号論』と | 松陰のブログ

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菅野盾樹著『メタファーの記号論』という書籍を紹介する。

菅野盾樹氏著の『メタファーの記号論』という書籍は人間が文章をどう解釈するかを解明しています。メタファーとは隠喩のことです。論理実証主義を標榜したウィーン学派のモリス氏は記号論を構文論、意味論、語用論に分けました(11頁参照)。内包的意味論、すなわち記号の外延またはそれが指すものとは別に、記号が意味するもの、その内包(個体概念、属性、命題など)を許容する意味論があります。例えば、これこれの文がこれこれの命題を意味することは、文そのものに究極するのではなくて、思考に基づくものではなくてはなりません。文そのものとは単にある種の物音や図形の列に過ぎませんから。こうして、意味論は思考に主体を呼び招くことを介して、語用論の一部に落ち着くのです(13頁参照)。

語の流用を規定するものは、語の本質、語にそなわる表立った定義などではなく、その語の意味構造(すなわち当該言語に属する一群の語彙から成る意味場にその語が占める位置によってそれが受け取る値)なのです(26頁参照)。語の理念性はそれが発語の場面へ引き立てられ実際に使用されることによって様々に揺らぎます。そのような揺らぎの中のある平衡としてしか、発語中の語の意味は存在しえないのです。隠喩の可能性も字義的なものの可能性も、共にこのような事態に属しています。隠喩の可能性は言語にとって外から加わった偶然ではなくて、言語の表現能力の本質的部分に他なりません(39頁参照)。

「なけなしの貯金を融通したのに、彼には煮え湯を飲まされた」という文章を見てみます。この文章の後半部はそれだけ取り出せば字義通りの意味のままで十分成り立ちます。しかし、前半部と併合された場合、それが代表する現実の事態はどこにも見当たらないのです。本当に煮え湯を飲んだわけではありません。文脈によって文章に隠喩の値が附与されたのです(93頁参照)。文章の意味は、文章の前後関係(文字通りの文脈)および共有知識と話し手達の発言の場面(脈絡)の函数です。「彼は狼だ」という文章があります。「彼は狼だ」の正しい解釈が「彼は狼ではない」と言えるでしょうか。このように、いかに解釈を運ぶべきかは、どのような文彩の形態が問題であるかに依っています。解釈の問は、それ故、発言が字義的かどうか、字義的でなければそれはいかなる形態か、この二部面からなる問、すなわち固定の問を先決問題とします。「彼は狼だ」という文章が隠喩であるのは、文脈および脈絡のお陰なのです。彼(人間)=狼ではなく、前後の文脈から「彼は狼のような人だ」という意味が補足され、発言者の真意を聞き手が正確に解釈できるのです(91頁参照)。聞き手は文の言外の意味を探索しなくてはなりません。Aという人間がBという人間に「クリームいるか?」と聞いた場合、Aが珈琲を作っている状況を見て、Bは珈琲に入れるクリームが欲しいかと尋ねていることを理解します。話し手は、聞き手が珈琲に添えられたクリームに類似する属性を持つ、というつもりなのでしょう。こうして隠喩混じりの陳述の受け手は、そこで使用された文が描写する事態がそれの類似記号(イコン)であるような別の事態を捜し出す労を払わなければならないのです。それはまさに相性がよいという程度のことに違いありません。ここに至って、聞き手ははじめて陳述の言外の意味を得て隠喩の解釈に成功した、と言えるのでしょう(57頁参照)。言外の意味という論理的含意とは区別されるこの種の含意を言語学者のグライス氏は会話の含みの働き方に首尾一貫した説明を与える目的で、話し手と聞き手の間で遵守されなければならない「会話の作法」を設定しました。会話への参加者は当然こうした作法通りに言語的所作を運ぶはずだと期待されるのであって、この要請を表明するのが、グライス氏の言う「協同原理」に他なりません(53頁参照)。グライス氏の理論の意義は、伝統の修辞学を他の誰よりも明示的な手続きで現代記号論に連結した点にあります。協同原理、会話の作法、発語の意図、会話の含みなどが、そのためにグライス氏が開発した概念装置に他なりません(57頁参照)。

言語学者のスペルベル氏は象徴の解釈を解釈のプロセスを使って説明しています。まず「知覚装置」とは外的刺激により供給される情報を入力として受容し、命題のかたちでこれを同一指定して、さらに外力として出す一連の操作の総体を言います。「理性装置」とは命題(必ずしも知覚装置のみに由来するわけではありません)を入力として受け取り、入力(および記憶中で使用可能な前提と)から「論理的に導出された」他の命題を出力として出す一連の総体を言います。最後に「象徴装置」とは、命題(精確に言えば「半命題」)を入力として受け取り、入力により「呼び起こされた」他の命題を出力として出す一連の操作の総体を言います。このプロセスの著しい特色は、知覚装置からの出力(ということは、大多数のデータが、ということを意味します)があらかじめ理性的に処理を施され、象徴的処理はその後にされる、という処理の順序づけです。陳述は音声であれ文字であれ一定の信号として知覚装置で処理され、命題のかたちで理性装置に入れられます。次いで陳述の字義通りの解釈がなされますが、まだ隠喩の解釈の口火は切られません。そのためには象徴装置へその処理を引き継がれねばならないのです。なぜ隠喩混じりの陳述の場合、知覚装置からのデータがこのように二重の処理を施されるのでしょうか。それは理性装置ではデータを処理しきれないからです。理性装置はデータ処理に際し、記憶に貯えられた知識(これには経験の基本にあずかる枢要な知識あるいは認識図式もあれば、単に個人的な事実の記憶もあります)を自由に駆使しますが、それでも理性装置ひとりでは処理をよくなしえないデータを与えられることが起こるからです。理性装置のみでデータ処理を完了しえないのであって、理性装置がそのままにしてしまう、いわば瑕のある出力が入力として象徴装置へ委ねられることになるのです(71頁参照)。

一般に、情報は二通りの仕方で伝達されます。一つはそれをコード化すること、二つ目は、それをひけらかすことです。言語が一方で「語り」、他方で「示す」可能性はここに由来します(81頁参照)。解釈の危機をどうしても克服した場合、残された手立てはただ一つ呼び起こしに訴えることです。呼び起こしの目的は、これまで動員された共有知識では割り出せない言外の意味の発見にあります。記憶中に散在する知識、イメージの断片が賦活され、それらを材料に解釈できない言葉へ有意性を付与するための補助前提が再構築されるのです(82頁参照)。類似によるイコンを構成する二契機、すなわちイコンには選択性と方向性の二つが同時に存在しています。任意の語句がイコンの職分をまっとうするわけではありません。極めて多様ではあるがやはり限定された枠内にそのような資格を持つ語句が収められる事実を否定できないでしょう(選択性)。また、語句に伴う類似は実に様々な仕方でイコンに寄与しますが、しかし少なくともイコンの多少なりともおぼろな輪郭はその類似によって規定されているはずです(方向性)(102頁参照)。ベイトソン氏に拠れば、言葉には、枠(フレーム)という概念があります。言語活動には以前から論理学者により導入されていた対象言語・メタ言語という抽象レベルに加えて、メタ伝達的というレベルが備わっています。発言が言葉を仲立ちに行われる社会的相互作用あるいは「話し手同士の関係」を主題に絞っていきます。一般にこのような発言のレベルを「メタ伝達的」と呼びます。このレベルに言語の働きを組織化する「枠(フレーム)」が介入します。それはあたかも絵の額縁(フレーム)のようなものです。額縁が「内部に注視せよ、外のものには留意するな」という指令を発して知覚を組織化するように、枠は言語的情報を地と図の構造へもたらし、枠内の情報解釈のガイドラインとして作用します。枠とは「あるメッセージがその中で理解されるべき解釈的文脈を合図するメタ伝達的装置」なのです(207頁参照)。

文章の意味とは文脈と言葉との相互作用によって規定されるものです。全体としての文脈と個としての文や言葉の相互作用によって意味が形成されています。意味を理解するという行為がいかに繊細で、繋がりを考慮しなくてはならない行為だと言うことが分かります。