末川博氏編の『法学入門(第三版)』という書籍を紹介する。 末川博氏編の『法学入門(第三版)』と | 松陰のブログ

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末川博氏編の『法学入門(第三版)』という書籍を紹介する。

末川博氏編の『法学入門(第三版)』という書籍は初めて法学を学ぶ方に適した良書です。第1講から第5講までが「法学の基礎」を、第6講から第8講までが「憲法について」を、第9講は「刑法について」を、第10講から第13講までが「民法について」を、第14講は「環境法について」を、第15講は「労働法について」を、第16講は「社会法について」を、第17講は「経済法・商法について」を、第18講は「国際法について」を解説しています。

人間は、ひとりぼっちで孤独に生きることはできません。生まれてから死ぬまで、相寄り相集まって共同生活をする中で生きる他ありません。そしてその共同生活には、範囲の広いものと狭いもの、結束の固いものとゆるやかなものなど、色々な種類がありますが、一般にはこれを社会と呼びことができます。人間の生活は、社会を離れてはありえないのであって、人間は、社会の中で生きなければならないというふうに運命づけられているとも言うことができます。ところで、そのような社会が社会として成り立ってそこで共同生活が営まれるについては、何ほどかの統一があり秩序がなければなりません。各人がそれぞれ勝手気ままな行動をしていては、とうてい共同の団体生活を維持することはできません。今日の国家というような社会では、人々の行動を方向づけて団体生活に統一と秩序を与える規律が必要です。そして、そういう規律は、道徳、宗教、礼儀、習慣などによって保たれているのですが、法によって保たれるところが大きいです。というのは、法においては最も強大な強制力が働いて、法がこうしろとかそうしてはいけないとか要求するところは、各個人の意志のいかんにかかわらず、強圧的に実現される仕組みになっているからです。法は、私達の社会生活を規律しながら私達の社会生活の中に生きているということもできれば、また私達は、法の支配する社会の中で生活しているということもできますが、こういう法自体ないし法の支配している社会現象について研究したり考察したりする学問が、今日、法学として成り立っているのです。広く社会科学と呼ばれる学問系列の中で一つの体系をなしています(2頁参照)。

どんな学問でも、先ず「何を(WHAT)」・「どのように-いかに(HOW)」・「何のために(WHY)」学ぶかということが課題となるはずです。つまり、学問をするということである限り、その対象が何であるか、また学問をどのような方法で進めるか、さらにその学問をすることがどんな目的を持っていてどんな価値があるかというふうに、対象、方法、目的の三つのことが考えられるのです。まず、「何を」という対象の問題。法学は、人間の共同生活たる社会の規律に関する法ないしはそれが生活の上で現れる法的現象を対象とするのです。法学の対象とする法ないし法的現象は、今日の社会では、複雑で多岐多面にわたっているとともに、その思想的な背景にまで立ち入って考えれば、実に広くて深いものを有しています。したがって、現代の法学には、法哲学・法社会学・国法学といったようなものから現在私達の住む社会で行われている個々の法律に関する憲法学・行政法学・民法学・商法学・刑法学・訴訟法学等々といったようなものに至るまで、まことに色々と分化して、それが専門化しているのです。法には、傾向の違った三つの流れに沿った部類のものがあります。人間の共同生活では当然だと考えられている法、上からの支配ないし統制の手段としてつくり出されている法、下から盛り上がる力によって獲得された法です(6頁参照)。

次に、法について「いかに」学ぶかという方法です。これは、ある意味では、法学の技術面に関しているとも言うことができます。従来の法学(ことに明治、大正時代の法学)では、とかく、この方法もしくは技術面が重く見られていて、しかも現に実際上行われている実定法だけを対象とする傾向が強かったため、憲法・民法・商法・刑法・訴訟法などの法典について、第一条・第二条というふうに条文を追ってそこにある文言に即した解釈をすることに重点が置かれていました。いちいちの法文の註釈を重んずるところから「註釈法学」と言われたり、また法文の字句があらわしている概念を丹念に解釈し、説明することに努めるところから「概念法学」と呼ばれたりしていたものと流れを同じにしているもののです。しかし、法学は、どうかすると、悪いことをする場合に、法規をいかにしてもぐることができるか、またどうすれば法に触れないですむか、さらに政治に結びついて大衆を抑えつけたり脅したり欺いたりするにはどうすれば都合がよいか、というような技術を習得することになる危険さえあります。そして、現にそういうふうになっている例も少なくないので、イギリスでは「よい法律家は、悪い隣人」という言葉があります。そこで、法学の目的について考えていかなくてはならないのです。「何のために」法学を学ぶか。このことは、実は法学を生かして、法学を学ぶについての「構え」をする上で基本になる点です。すなわち、法学における「いかに」という方法としての技術面も、この目的を確かに立てることによって精彩を加えることができ、したがって、法学を勉強することに多少でも感激を覚えたり情熱を湧かしたりすることができる素因となるかも知れないと思います。法学は、私達の日常生活における実践の中に頭を突っ込んで、そこに支配している法や法的現象を対象にしている極めて実践的な学問であるに違いありません。しかし、それは、卑近で実践的であるだけに、また人間生活の現実的な幸福や人類の平和に直接に繋がっているところも多いと言わなければなりません。法学の目的とは、現今の世情の中で、国民大衆の自由と権利を守り、さらに人類の幸福と世界の平和のために寄与する方向で法学を生かすことであると言っても良いのです(9頁参照)。手近なところを見ても、社会的経済的に弱い立場におかれている人達が自由や人権を侵害されている例は、決して少なくありません。そういう場合に、本当に法を生かしてそのような弱い人達の幸福のためになるような方向で法学を学ぶのであるならば、「何のために」法学があるかについての正しい目的観を確立したものと言ってもよいのです。これからの法学においては、正義を理念とすると言われる法が「何のために」あり、したがってまた法学を学ぶことの目的がどこにあるかを重要視して、この点をじっくり考察してかからねばならないと思われます(13頁参照)。

日本において現在行われている法(学者のいう実定法)は、原則として、六法全書その他の法令集で見られるような成文の制定法として現れています。そしてそういう制定法は、法律(国会で制定された法を特に法律という)と命令(国会以外の機関が制定する政令・府令・省令・規制などの総称)という形式で、まことに多種多様の内容をもって、数限りなくできているのであり、しかも国会が開かれる度にたくさんの法律ができるのでも分かるように、法令(法律と命令の総称)の数は年々増加しています(14頁参照)。また、法は、ごく大雑把に、公法、私法、社会法などという系統に分けられます(15頁参照)。

末川博氏は、イェーリング氏が『権利のための闘争』の冒頭に掲げている言葉をもじって「法の理念は正義であり、法の目的は平和である。だが、法の実践は社会悪とたたかう実践である」と述べています(20頁参照)。