私の大好きなイギリスの経済学者・ケインズ著の『雇用、利子および貨幣の一般理論(下巻)』という書籍 | 松陰のブログ

松陰のブログ

ブログの説明を入力します。

私の大好きなイギリスの経済学者・ケインズ著の『雇用、利子および貨幣の一般理論(下巻)』という書籍を紹介する。

ケインズ理論は、下巻85頁に記載されている、「景気循環は複雑きわまりない現象であり、とりわけ消費性向、流動性選好の状態、それに資本の限界効率の変動のことごとくが、一定の役割を演じていることが分かります、その中で、景気循環の本質的な特徴、とりわけ景気循環のゆえんである時系列と持続期間の継続性は、主として資本の限界効率の変動の仕方に起因している」という文章に集約されているように思えます。資本の限界効率を主軸とし、消費性向、流動性選好の状態を勘案することがケインズ理論の核なのです。それは、『一般理論』の理論的枠組みを要約したジョン・ヒックスのIS-LM分析からも充分に知ることができます。経済の均衡状態は、このようにしてIS曲線とLM曲線とが交わる点Eで実現することになります。この時の雇用量Neは一般に完全雇用の水準Nfとは一致しません。一般に、Nf―Neだけの非自発的失業が発生することになります。ケインズ先生は、労働の全雇用量を決定するのは、有効需要の大きさであって、貨幣賃金を引き下げた時に、有効需要は逆に低下することもあり得ます。非自発的失業を減らすためには、有効需要を、直接的、あるいは間接的な手段で増やすような政策が取られなければならないと主張したのです(236頁参照)。

Nf―Neから得られる非自発的失業ですが、古典派理論には自発的失業と摩擦的失業しかなく、非自発的失業を概念化させたことはケインズ氏の功績だと思います。ケインズと古典派の違いは、貨幣賃金の切り下げを拒む労働者の行為は古典派経済学者の目から見れば非合理的であるが、ケインズ氏にとっては合理的だということです。労働供給に関するケインズ氏の議論が分かりづらいのは、ケインズ氏が、労働者の行動を価格理論を超え出たところで論じているからです。古典派の価格理論よりも現実を見ましょうと言っています。労働者の主体的均衡と不均衡の議論はある種の社会学的議論を抜きにしては完結しません。完全雇用水準(Nf)が財市場を均衡させる雇用水準(N*)を上回り、非自発的失業が存在しているとしましょう(労働の需要関数Ndと供給関数Nsは、実質賃金の逆数、すなわち貨幣賃金表示の物価の関数として描かれています)。この時、貨幣賃金を引き下げれば当座は雇用量が増えるけれども、その雇用水準ではZ(総供給価格)>D(総需要価格)となるから物価水準は低下し、そのうち実質賃金も雇用水準も旧に復してしまいます。つまり、貨幣賃金を切り下げることによって実質賃金を切り下げようとしても、切り下げは自己実現しないのです。実質賃金が元の水準に戻るだけならばまだ良いです。しかし、貨幣賃金の切り下げは総需要にも影響を及ぼし、総需要曲線を下方にシフトさせる可能性もあります。すなわち、貨幣賃金の切り下げは将来さらに貨幣賃金の切り下げが行われるかも知れないという期待を生み、このデフレ期待は投資の期待収益を引き下げることによって、資本(投資)の限界効率表を下方に引き下げるかも知れません。貨幣賃金の切り下げは消費にも影響を及ぼしますが、その影響は雇用を介したものであり、消費関数(総需要曲線)上の移動をもたらすだけです。しかし、同じ賃金引き下げは、ケインズ氏に拠れば、資本の限界効率表を下方にシフトさせる可能性を持つのです。物価と貨幣賃金のスパイラル的な下落を引き起こす可能性があるのです(250頁参照)。まさに日本経済が陥ったデフレスパイラルそのものです。

経済思想に重きを置いて、理論を展開して行ったところにケインズ理論の高評価があるように思えます。ケインズ氏は、「誰の知的影響を受けていないと信じている実務家でさえ、誰かしら過去の経済学者の奴隷であるのが通例です。既得権益の力は思想のもつじわじわとした浸透力に比べたらとてつもなく誇張されている、とケインズは思っています。役人や政治家、あるいは扇動家でさえも、彼らが眼前の出来事に適用する思想はおそらく最新のものではないでしょう。だが、最新の思想もやがて時を経ます、早晩、良くも悪くも危険になるのは、既得権益ではなく、思想です(194頁参照)」と結んでいます。ケインズ氏は、『雇用、利子および貨幣の一般理論』という著書を通じて、思想を持つことが社会を変革する上で大切であり、(非自発的失業を勘案した雇用政策を中心とした)経済思想の重要性を説きたかったのではないかと思います。