今井賢一・金子郁容共著の『ネットワーク組織論』という書籍を紹介する。 経済社会は、道路、鉄道、 | 松陰のブログ

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今井賢一・金子郁容共著の『ネットワーク組織論』という書籍を紹介する。

経済社会は、道路、鉄道、航空、あるいは電気通信等のインフラストラクチャーの上に成り立ちます。インフラストラクチャーとは社会基盤の意味であり、その基盤がどのような技術的機能を持つかということがその上に形成される経済や社会のシステムに大きな影響を与えます。というのは、道路網がどう出来るかとか電気通信のネットワークがどのように使いやすくなるかということは、人と人、組織と組織との繋がり具合、つまり関係のあり方を決め、部分と全体の関係を形成していくのであって、まさにあらゆるネットワークの物的基盤にほかならないからです。今井賢一氏と金子郁容氏は、この物的基盤を軽視するどころか、そこでの最近の技術革新こそが、産業社会の新しい動きを作り出しており、情報を中心としたネットワーク組織の物的基盤を形成していると考えています。道路・港湾・郵便型の旧インフラストラクチャーから、コンピュータと電気通信を駆使する新インフラストラクチャーへの変化は百年単位の大きなイノベーションです。通信ネットワークは確実に人々の間のコミュニケーション、付き合い方、仕事の進め方を変えています(22頁参照)。

大量生産・大量販売システムにおける情報観は、必然的に“肝心な情報は組織の上層部にある”というものの見方になります。上層情報観とヒエラルキー組織が結びつくと、いったん決められた情報は静的なものとなり、組織の他の人々や市場の情報との動的な連結を失っていくのです。次第に動的な場面から生じる情報から遊離し、頭で考えたコンセプトのみが先行する経営となりがちになります(29頁参照)。上層のもつ情報と場面情報を区別し、上層の情報だけに基づく経済運営の陥穽を指摘し、場面情報の重要性を述べています。場面情報というものが重視されてきたのは、知のあり方、つまりものを知り、ことを理解するというその仕方にかかわっています。中心的な知とか、全体的な知というものが信用されなくなり、その中で出てきた構造主義にはじまるフランスの思想家達の鋭い批判に関連しています。場面情報の重視とは、アビ・クールブルグ氏の有名な言葉で言えば、「神は細部に宿る」ということ、つまり物事ないしその場その場の細部の出来事にものの考え方を組み直してゆく鍵があるということです。同時に、現場に立ち帰るということは、既成の概念や理解の枠組みをいったん離れて、物事をつかみ直してみるということです。これまでの理論とか思想とかが疑われ、価値が再検討されているのであれば、その出発点に立ち帰って色々な前提の妥当性を確かめてみることが重要になります。その時その場面を自分の目で見てものを捉えるということは、それまでの経験を総動員し、感覚をも働かして、ものに直接触れて物事を見るということです。その場面に何らかの意味でコミットして、身体を通した判断で情報を掴むということです(45頁参照)。

マーケティングとは企業と消費者の間のコミュニケーション・システムの構築に関するものです。ここでコミュニケーションと言っているのは、片方からもう片方へ形式的情報を一方的に流すというのではなく、互いに相手が発信する情報の意味を解釈しながら関係を形成するということです。互いの意味を解釈し合うという過程においては、固定的な役割分担が崩壊して、必然的に両者の関係が変化することになります。一般的に言って、関係を形成するということは情報をやり取りしてお互いの持つ考え方を理解し合うことです。そのことは、両者の間に情報を伝える(双方向の)メディア、つまり情報媒体を構築することだとも表現できます。そのようなメディアのことを「コンテクスト」と呼びます。コミュニケーション・システムの確立は、コンテクストの構築と言ってもよいでしょう。コンテクストとは要するに、過去のインタラクション(相互作用)の経験の蓄積であり、将来の「期待」を形成するもとになるものです。コンテクストの日本語訳は「文脈」です。コンテクストを構築するということは、インタラクションの中で発生する様々な情報の集合の中から文脈を読み取ることが可能になるような関係を作ることに他なりません(86頁参照)。情報の意味を決定するものは、コンテクスト(文脈)です。両者間のコンテクストが意味を形成していくのです。

情報は人と人の相互作用の中から生まれるものです。情報の意味というものは、初めからこれこれと定まったものではなく、人と人との間の相互解釈サイクルの中で形成されるものです。基本的な情報観は、情報がもともとダイナミックな性質を持ったものであるということから出発しています。場面情報を重視したのもこのような認識から来ています。情報は本来動的なものであると言っても、情報の意味形成の相互関係のサイクルが一段落してある一定の意味が定まった時、その結果は数値データ、メモ、コンピュータソフトウェア、マニュアル等、一定の表現形態を持ったものとして「固定」されます。このように固定された状態を「情報の静的側面」と呼び、情報がもともとのインタラクションの過程の中で生まれる様子を「情報の動的側面」と呼んで区別します。ここで注意すべきは、静的・動的の区別は相対的な、地と図の関係にあるものだということです。つまり、情報の静的側面と動的側面は、はっきりとした境界線で固定的に区分されているのではなく、表裏一体をなす情報の二つの側面です(173頁参照)。情報が情報を理解しながら進むプロセス、つまり情報の自己解釈過程が重要です。それは外部からの統制・管理や、予め定められたプログラムに基づかず自分が自分を解釈しながら変化して行く過程です。情報の自己解釈が可能になるためには、情報を解釈する主体に「自己」という意識がなくてはなりません。自己意識は自己と他者の区別をすることから形成されるのですが、アプリオリ(先天的)に確定された自己がすでに存在して、他者との境界は固定されたものであるとするなら自己解釈する必要性はないことになります。一方、自己解釈と共に変わる自己を想定するなら、自己を形成するためには先ず自己が必要だという「自己言及パラドックス」に似たサイクルが発生することになります。このサイクルが堂々巡りにならないためには、自己と他者の関係についての、何かしらの共通認識とか共通理解といったものが存在することを想定し、それが出発点とし、関係の中で情報を得、解釈しながら絶えず境界を再定義して行くダイナミックな過程の中に自己解釈を埋め込むことが必要です。このパラドックスおよびそれを解釈するための自己と他者の境界の再定義のプロセスを実現する装置が「ネットワーク」です(180頁参照)。今井賢一氏と金子郁容氏がイメージするネットワークの姿は182頁に掲載されています。図1が従来のネットワークのイメージで、図2がわれわれ(今井賢一氏と金子郁容氏)のネットワークのイメージです。図2は、自己というものは完成された形でアプリオリに存在するのではなく、自分の持つ関係のうち一つでも変われば自分の形もスーと変わってしまうようなオープンエンディッドで、流動的で、基本的な不安定性を内包したものであるという、一言で言えば、自己は関係の中でしか認識されないという、今井賢一氏と金子郁容氏のネットワークの基本原則を表現したものです(182頁参照)。

今井賢一氏・金子郁容氏共著の『ネットワーク組織論』は、情報を中心に新しい関係のあり方を提示した書籍です。真に価値のある情報を創造する組織とはどういうものなのかを説いています。