小田原攻めに遅れ、白装束で豊臣秀吉に謁見した独眼竜・伊達政宗は伊達男の語源にもなった武将です。江 | 松陰のブログ

松陰のブログ

ブログの説明を入力します。

小田原攻めに遅れ、白装束で豊臣秀吉に謁見した独眼竜・伊達政宗は伊達男の語源にもなった武将です。江戸幕府の開府後、伊達政宗は徳川家康に巧みに仕えながら密かに天下を取る野心を持ち続けたと聞きます。まず大坂夏の陣での行動が奇妙、奇妙。伊達政宗は味方に発砲しているのです。徳川軍の先鋒大将・水野勝成勢の神保相茂隊約300人を味方討ちし、神保隊を壊滅させ、神保相茂も討ち死にしてしまっています。怪しいですよね。さらに、伊達政宗は真田幸村とは戦ってはいるのですが、結局、後退するのです。水野勝成が再三、政宗に真田への攻撃を要請しますが、政宗は弾薬の不足や兵の負傷を理由に悉く拒否しています。何か伊達政宗は豊臣方の味方をしているような行動しているように思えませんか。ご存知の通り、大坂夏の陣で真田幸村は徳川家康のいる本陣まで突入し、後一歩まで家康を追い詰めています。うーん、怪しい。余談ですが、真田幸村の娘・阿梅は幸村の死後、伊達政宗の家臣・片倉重長に嫁いでいます。

 また、政宗は慶長遣欧使節として家臣の支倉常長らをイスパニアへ行かせていますが、これも天下を取るためにスペインらと軍事的な同盟を結ぶために派遣したという噂があります。戦になった際、スペインの軍事力を当てにしていたのです。大久保長安事件が発覚し、大久保長安と親しい関係にあった松平忠輝と伊達政宗らが謀反を企てているという噂が流れました。結局、伊達政宗には処分はありませんでしたが、政宗の娘・五郎八姫と結婚した(つまり義理の息子)松平忠輝は最終的には改易にさせられています。徳川家は伊達政宗が家康の子・松平忠輝を利用して天下を狙っていると疑い、家康の死後、徳川秀忠が松平忠輝を改易させたと噂されています。真相は分かりませんが、野心家の伊達政宗のこと、あり得ない話ではないように思えます。