鬼澤忍訳、マイケル・サンデル著『これから「正義」の話をしよう―いまを生き延びるための哲学―』とい | 松陰のブログ

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鬼澤忍訳、マイケル・サンデル著『これから「正義」の話をしよう―いまを生き延びるための哲学―』という書籍を紹介する。

『これから「正義」の話をしよう―いまを生き延びるための哲学―』は、NHK教育の『ハーバード・白熱教室』で話題になったマイケル・サンデル氏の著書です。私も毎週、NHK教育の『ハーバード・白熱教室』を観ていました。ひとつのテーマに関して熱いディスカッションをするのを楽しみにしていました。日本人はディスカッションが下手だと言われていますので、NHK教育の『ハーバード・白熱教室』のようなディスカッションを参考にして教育に活かして欲しいと感じました。

マイケル・サンデル氏著の『これから「正義」の話をしよう―いまを生き延びるための哲学―』という書籍を読んで感じたことは、正義は状況、状況によって違うのではないかと思いました。マイケル・サンデル氏が問いかける正義は、囚人のジレンマに陥る問題が多く、選択肢にメリットとデメリットが共存し、どちらのメリットを選択すべきかを迷ってしまいます。システムは諸刃の剣です。メリットとデメリットは必ず共存するものです。そうなると、その状況によって判断せざるをえないのではないかと思いました。

マイケル・サンデル氏著の『これから「正義」の話をしよう―いまを生き延びるための哲学―』という書籍では、正義に対する三つの考え方を探っています。第一の考え方では、正義は功利主義や福利を最大限にすること(最大多数の最大幸福)を意味します。第二の考え方では、正義は選択の自由の尊重を意味します。自由市場で人々が行なう現実の選択(リバタリアンの見解)であれ、平等な原初状態において人々が行なうはずの仮説的選択(リバタリアンな平等主義者の見解)であれ。第三の考え方では、正義には美徳を涵養することと共通善について判断することが含まれます。マイケル・サンデル氏が支持する見解は第三の考え方に属しています。その理由を説明しています。功利主義の考え方には欠点が二つあります。一つ目は、正義と権利を原理ではなく計算の対象としていることです。二つ目は、人間のあらゆる善をたった一つの統一した価値基準に当てはめ、平らにならして、個々の質的な違いを考慮しないことです。自由に基づく理論は一つ目の問題を解決するが、二つ目の問題は解決しません。そうした理論は権利を真剣に受け止め、正義は単なる計算以上のものだと強く主張します。自由に基づく諸理論は、どの権利が功利主義的考慮に勝るかという点では一致しないものの、ある特定の権利が基盤となり、尊重されるべきだという点では一致します。だが、尊重に値する権利を選び出すことはせず、人々の嗜好をあるがままに受け入れます。私達が社会生活に持ち込む嗜好や欲求について、疑問や異議を差し挟むよう求めることはありません。自由に基づくそうした理論に拠れば、私達の追求する目的の道徳的価値も、私達が送る生活の意味や意義も、私達が共有する共通の生の質や特性も、全ては正義の領域を越えたところになるのです。マイケル・サンデル氏は、これは間違っていると述べています。公正な社会は、ただ効用を最大化したり選択の自由を保証したりするだけでは、達成できません。公正な社会を達成するためには、善良な生活の意味を私達がともに考え、避けられない不一致を受け入れられる公共の文化をつくりださなくてはいけません(334頁参照)。

所得、権力、機会などの分配の仕方を、それ一つで全て正当化できるような原理あるいは手続きを、つい探したくなるものです。そのような原理を発見できれば、善良な生活をめぐる議論で必ず生じる混乱や争いを避けられるでしょう。しかし、そうした議論は避けるのは不可能です。正義にはどうしても判断がかかわってきます。議論の対象が金融救済策やパープルハート勲章であれ、代理母や同性婚であれ、アファーマティブ・アクションや兵役であれ、CEOの報酬やゴルフカートの使用権であれ、正義の問題には、名誉や美徳、誇りや承認について対立する様々な概念と密接に関係しています。正義は、ものごとを分配する正しい方法にかかわるだけではありません。ものごとを評価する正しい方法にもかかわるのです(336頁参照)。

マイケル・サンデル氏著の『これから「正義」の話をしよう―いまを生き延びるための哲学―』では、三人の哲学者をピックアップしています。それは、イマヌエル・カント氏、ジョン・ロールズ氏、アリストテレス氏です。中でも私はアリストテレス氏に興味を持ちました。アリストテレス氏の政治哲学の中心には二つの観念があります。正義は目的にかかわります。正しさを定義するには、問題となる社会的営みの「目的因<テロス>(目的、最終目標、本質)を知らなければなりません。正義は名誉にかかわります。ある営みは目的因について考える(あるいは論じる)ことは、少なくとも部分的には、その営みが称賛し、報いを与える美徳は何かを考え、論じることです(241頁参照)。アリストテレス氏にとって、政治とは、善く生きるためにあります。政治の目的は、まさに人々が人間に特有の能力と美徳を養えるようにすることです。共通善について熟慮し、実践的判断力を身に付け、自治に参加し、コミュニティー全体の運命に関心をもてるようにすることです(251頁参照)。特に私が興味を持ったのは、“道徳的生活が目指すものは、幸福です。だが、アリストテレス氏は「幸福」という言葉を功利主義的な意味(快楽を最大に、苦痛を最小にすること)で使っていません。徳のある人とは、快楽と苦痛を、それぞれ適正なものについて感じる人のことです。例えば、もし人間が苦しむのを見ることに快楽を感じるならば、それは克服すべき悪徳であり、幸福の真の源ではないと考えられます。道徳に優れている人は、快楽と苦痛を集計するのではなく、それらを一つの線上に並べ、崇高なものを喜び、卑劣なものに苦痛を感じるものなのです。幸福とは心の状態ではなく人間のあり方であり、「美徳に一致する魂の活動」なのです(255頁参照)”という文です。確かに人間が楽しいという感情をもつことは重要ですが、それが絶対ではありません。何を楽しいと思うかはそれ以上に大切だと思いました。例え人間を殺すことに幸福感を感じる人間がいたとしても、幸福だと感じるからだけで、その行為を正当化することはできません。つまり何に幸福や快楽を感じるかを問うことが大切なのだということです。

「正義とは何か」。とても難しい問題をもう一度見つめ直すには、マイケル・サンデル氏著の『これから「正義」の話をしよう―いまを生き延びるための哲学―』という書籍はお勧めの書籍です。