NHKの『サイエンスゼロ』 | 松陰のブログ

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NHKの『サイエンスゼロ』




竹内薫著『99・9%は仮説―思いこみで判断しないための考え方―』という書籍を紹介する。

科学発展の歴史は仮説の歴史と言っても過言ではありません。まず仮説を立て、その仮説を検証し、証明することにより発展してきたのです。

固定観念の悲劇として、ガリレオ・ガリレイ氏の話は有名です。ガリレオ・ガリレイ氏は地動説を唱えて裁判にかけられ、有罪になった人です。「それでも地球は動く」という台詞を吐いたとか吐かなかったとか。世間では「天文学の父」と呼ばれ、ピサの斜塔の実験でも有名な人です。そのガリレオ氏は、望遠鏡を最も早くから取り入れたひとりでした。1608年、オランダで望遠鏡が発明されました。ガリレオ氏はその噂を聞きつけ、早速、試行錯誤の上に自作の望遠鏡を作り、天体観測を行ないました。倍率は約33倍。デジカメの倍率を考えるとなかなかのものです。さて、1610年4月、ガリレオ氏は、イタリアのボローニャに24人もの大学教授を集めて、自作の望遠鏡を披露しました。期待にワクワクしながら、ガリレオ氏は、まず彼らに望遠鏡で地上の様子をみてもらいました。すると、どうでしょう。望遠鏡を覗き込むと、山や森や建築物など、はるかに遠くにあるものがドーンと目の前に映し出されます。「これはすごい」と教授達はその迫力に驚き、ガリレオ氏を称賛しました。当時、イタリアでは、誰もまだ望遠鏡をみたことがなかったのです。しかし、話はこれで終わりません。次に、ガリレオ氏は教授達に望遠鏡で天体を見せたのです。すると、どうでしょう。それまでボンヤリとした光る点に過ぎなかった夜空の星々が拡大され、月のクレータまでもがはっきりと見えたのです。教授達はまたしても驚きました。そして、口々にこういったのです。「こんなの出鱈目だ」と。教授達の中には、当代きっての天文学者ケプラー氏の弟子、ホーキー氏もいました。ホーキー氏は「それ(望遠鏡)は、下界のおいて見事に働くが、天上にあって我々を欺く」と語りました。つまり、ガリレオ氏の望遠鏡は地上を見る分には問題なく作動しますが、天を向けるとうまく働かない代物だ、と文句をつけてきたのです。まさに天国から地獄へ。称賛の的になると期待していたガリレオ氏は、失意のどん底につき落とされました(38頁参照)。

この教授達の反応は非常に面白いものです。どうして突然、教授達は出鱈目だと言い出したのでしょうか。当時、天上界というのは完全な法則に支配された完璧な世界だと思われていました。つまり神が棲む世界です。そこでは、全てのものが規則的に動き、美しく、統一ある姿をしています。ですから、月に凸凹(クレーター)などがあるはずがないのです。凸凹というのは不完全ということですから。星の表面は、綺麗にのっぺらぼうじゃないといけなかったわけです。それなのに、望遠鏡で見ると、全然のっぺらぼうではありません。月の他にも色々な星をみてみても、結局自分が期待していたものが見えないわけです。太陽の表面には、黒く汚れたシミのようなもの(黒点)まで見えたりもします(そのまま見たら目を痛めますが、ガリレオ氏は太陽高度が低い時を狙って望遠鏡で覗いたようです)。教授達の頭の中には、その当時の人々が抱いていた天体の「本当の姿」みたいなものがあって、それと違うものが見えてしまったのです。だから、態度を豹変させて、「この望遠鏡はおかしい、出鱈目だ」と騒ぎ立てたのです。一方、望遠鏡で地上を見ると、遠くの山や建物が目の前に映し出されます。地上では、自分が期待していたものが単に大きく見えるのです。遠くのものが拡大されて見えるということは、実際にその山や建物の近くにいってみればすぐに確認できます。故に、望遠鏡が出鱈目を映しているわけではないことに誰でも納得します。結局、教授達が出した答えは、地上は良いが天上は駄目ということでした。望遠鏡は地上を見る時だけしかうまく作動しないという結論だったのです。一見とんでもない屁理屈に聞こえますが、当時は「天上界と地上界は別々の法則に支配されている」という常識がはびこっていましたので、そういった考え方は何ら間違ったものではなかったのです。現代でしたら、地上で確かめてみて、その性能が完全に確認されたのであれば、その時点で、「望遠鏡というものはうまく作動する」と考えるのが普通です。そして、一般化して考えてみて、夜空に向けてみても望遠鏡は当然うまく働いて、天上界を精確に拡大する、そういう風に考えるはずです。ところが、ガリレオ氏の時代はそうではありませんでした。望遠鏡の客観的な性能よりも、自分の頭の中にある主観的な思い込みの方が勝ったのです。その時代やその社会に浸透している常識の前では、大学教授と言えども目が曇ってしまうのです(41頁参照)。このガリレオ氏の事例から学ぶべき点は、いくらそこに事実が存在していたとしても、社会の価値観、固定観念、思い込みなどがあると、その事実を正確に見ることができなくなるという恐さです。定説(=社会の価値観、固定観念、思い込みなど)に疑問を持ち、仮説を立てることが学問の発展に寄与してきたのです。

竹内薫氏著の『99・9%は仮説―思いこみで判断しないための考え方―』には、アインシュタイン氏が固定観念を破壊した例が記載されています。電波というのは波の一種です。そして、波というのは、一般的に「何か」を伝わるものです。例えば、水の波の場合、水の分子を伝わります。あるいは地震の波の場合は、地殻を伝わります。当時、波が伝わるためにはその波を伝える「媒質」がどうしても必要と考えられていました。現在でも、科学に詳しくない普通の人にとっては、むしろそれは当たり前の考え方かも知れません。波が伝わるのですから、それを伝える媒質があるのは当たり前だと思うわけです。故に、水の波や地震の波から類推して、電気の波の場合も、それを伝える「何か」があるのだろうと自然に考えてしまうわけです。それこそが、宇宙空間を充たす見えない物質のエーテルだと考えたのです。エーテルは、アリストテレス氏の説を基に、中世の哲学者ルネ・デカルト氏が考え出した概念です。デカルト氏は、宇宙空間を充たしている目に見えない物質を考えました。それがエーテルです。デカルト氏はエーテルこそが光を伝える媒質であると考えました。媒質とは、「媒介する物質」という意味です。そしてそれ以来、エーテルは、空気のように当たり前に実在するものとして、科学の世界では考えられてきたのです。ただし、空気とは違って、誰でもその存在を確認することはできませんでしたが。当時、電気と光は似たものだと考えられてきました。故に、ヘルツの実験によって電波が空間から伝わることが分かり、同時に光の媒質であるエーテルの存在も証明されたと考えてしまったのです。しかし、その後、1905年にアルバート・アインシュタイン氏が出てきて、エーテルは存在しないという特殊相対理論を発表し、それ以降、物理学では、空間を充たす物質ではなく、空間そのものが光や電波を伝えると考えられています。つまり、波には必ずしも媒質は存在しなかったというわけです。まさに、新しい仮説が古い仮説を倒したのです。とにかく、エーテルという名の物質がある、あるいは、波を伝えるためには必ず媒質が必要であるというのは、結果的にただの仮説に過ぎなかったわけです。ただ、あまりにも当たり前に考えられていたので、アインシュタイン氏以外、誰もそれが仮説であると思わなかったのです(80頁参照)。

ガリレオ氏やアインシュタイン氏以外にもたくさんの事例がこの竹内薫氏著の『99・9%は仮説―思いこみで判断しないための考え方―』という書籍には掲載されています。科学が仮説から成り立ち、そして、既存の価値観が科学の発展を阻害する危険性を教えてくれています。