落語のコンクールは、沢山あればあるほど面白いし、
私個人としては「必要」だと思う。
しかし、「必要」だが、そこにそんなに「意味」は無い(笑)
ここが大事だ。
そして結論を言うと、少なくとも私より後輩の方には言いたい。
【落語のコンクールは意味がないからこそ、出ろ!】
・・・「得はあっても、損はないから、出ろ!!」である。
今回のブログで言いたいのは
・落語のコンクールは意味がない!
・だからこそ、コンクールは必要!
・だからこそ、若手落語家はコンクールに出るべき!
という事である。
●まず、コンクールの「意味の無さ」と「本質」について書く。
もしも、落語のコンクールに意味がメチャクチャあって、
「真の落語家を決める!」
などという事が存在してはならない。。。当たり前だ。
そもそも「真の落語家」など決められるはずもない(笑)
また「一番凄い落語家」は、お客様個人によって違うので、決められない(当たり前の話だ)。
・・・この時点で落語のコンクールはそんなに意味がないと理解できるだろう。
では、落語家のコンクールとは何なのだろうか?
ちなみに陸上で「100m走」「幅跳び」「高跳び」「棒高跳び」などの競技があるが、
別に、そこで陸上選手の「人間としての素晴らしさ」を測っている訳ではない。
あくまで「100mの速さ」「飛べる距離」などの「1つの審査基準」を決めて競っているのである。
落語のコンクールも一緒である。
NHK新人落語家コンクール、繁昌亭大賞、文化庁芸術祭、
島ノ内落語チャンピオンシップ、上方落語若手噺家グランプリ・・・など、
それぞれ「その時の特定の審査基準」においての優劣を競っているのである。
まず、ここを理解しないといけない。
だから「真の落語家を決めてる訳ではない」という意味において、
「意味はそんなに無い」と強く言いたい!!
しかし、落語家はコンクールの勝敗に物凄い一喜一憂してしまう。
また「いや、僕はそんなんは違うと思います」とか「いや僕はコンクールとか苦手で」と
言う噺家を生んでしまう・・・。それは、なぜか?
(もちろん、そう思うのは自由だし、出ないのも自由だ。
しかし、もっと経済合理性を考えて欲しい。落語家は商売だから出るべきだと個人的に思うので、
以下、説明する)
●なぜ「コンクールに出て負けるのが怖い病」になるのかを考える。
さきほど書いたように、陸上は、
「100m走(速度)」「幅跳び(距離)」「砲丸投げ(距離)」など、
何を競うかが明らかだ。しかし、落語家のコンクールは
NHK新人落語家コンクール
繁昌亭大賞
文化庁芸術祭
若手噺家グランプリ
とか言われても「何を競ってるのか」が厳密にはわからない。
・・・そんなもん「落語やがな!」と言われるかもしれないが、
人情噺と滑稽噺の優劣はつけられない。
滑稽噺でも、
「高座時間にお客を何回笑わした方が勝ち」なのか、
「高座時間にもっとも大きい笑い声を出させた方が勝ち」なのか、
詳細は不明である。つまり、落語家コンクールは、
「陸上選手コンクール」というてるみたいなもので、
100m走選手、砲丸投げ選手、高跳び選手、幅跳び選手などに競技をさせて、
「こいつが凄い!」と決めるコンクールである・・・「大丈夫か、それ!」でしかない(笑)
しかし、残念ながら、種目の人間を集めて「誰が凄いと思うか」コンテストしか
開催しようがない。ただ、そこで注目すべきは、
「どの時点の誰が、どんな判断で」
という審査基準がある。
いわば、
NHK新人落語家コンクールは審査員はNHKの選出者だし、
若手噺家グランプリの審査員は予選は噺家で、決勝は在阪TV局プロデューサー、
繁昌亭大賞の審査員はメインが新聞記者
みたいな感じである。
「特定の人」が選ぶ基準での優劣で「凄さ」を比べるのが落語家コンクールである。
そこで、落語家が「コンクールに出て負けたら怖い病」になる大きな原因は、
「芸は人なり」
みたいな前提があり、「落語というものが全人格を賭けたもの」だったりするので、
負けた場合、「落語=全人格」を競っただけに「全否定された気持ち」になるからだ。
しかし、別に負けた時は
「審査員がアホやった」
でええんである。なぜなら、落語家はそれぞれ自分を贔屓にしてくれるファンがいる。
もしも、そのファンに審査してもらえば「絶対的な優勝」だろう。
だから、そんな細かい「1つの負け」にこだわる必要はない。
ある意味、落語家のコンクールとは、
皆で「今日は人生ゲームで誰が勝か?」「トランプの大富豪で誰が勝つか?」を
決めてるだけである。
別にその人間の「絶対的な幸せ度」とかを測ってる訳ではない。
だから負けても気にする必要はない。
●では、なぜ出場した方が良いのか?コンクールの必要性。
落語のコンクールは審査基準は物凄い曖昧だ。
そして、誰がどのコンクールで優勝したなど、誰も覚えていないのが現実だ。
そして、お客様はそれぞれ「自分の価値基準」で好きな噺家を選んでおり、
そのお客様の中で「優劣」は決められている。
↓
落語をよく見る人には、コンクールの優劣については意味がない。
では、誰がどんな時に「コンクールの優勝者」に着目するのか?
↓
落語を見た事ない人が、「落語家のプロフィールを見る時」である。
その落語家を例え一回でも見た事があれば、プロフィールと無関係に
その落語家の腕前を評価する。
その人は、「わからない」からこそ、コンクールで勝ったかを参考にするのである。
逆算すると、「コンクールで負けた」ことはカウントされないのだ!
コンクールで勝った事は、プロフィールを見る人にのみ、「へぇ~」と言わす効果がある。
極論を言えば、コンクールの優勝は、
「何もわからない田舎のオッサンにバカにされない」
というただ一点のみの効果だ。その意味で出るのはメリットがある。
また、前述のように「人生ゲーム」であれ、「トランプの大富豪」であれ、
勝負は負けたら悔しいし、皆が必死だ。
その必死な落語をしてる中に身を置く事は、自分の落語の向上に
少なからず良い影響を与えると思う。
その意味でも、コンクールは必要だし、コンクールは意義がある。
そう!「意味は無い」けど、「意義はある!」ということだ。
そして、落語を知らない人は何となく、「どっかで落語会に行ってみたい」という気持ちがある。
その時にコンクールがあると、
「おお!何かわからんけど、面白そう!」
となるのだ。M-1やR-1をコンクールにせず、
全く同じメンバーで漫才やピン芸人の番組でやっても視聴率は伸びないだろう。
エンタメは、お客さんあっての「興行」だ。
落語のコンクールということで、「落語のビギナー」が注目し、新たな落語ファンを生み出すのだ。
そして、落語をよく見るようになれば「自分のお気に入り」が生まれるので、
そのコンクールの優劣は、コンクールを見た人ですら、関係なくなるのだ。
また出場した時に、自分が負けたとしても良い芸をすれば、
来場者は自分のファンになるかもしれない
だから、落語のコンクールは「意味は無い」し、「意義はある(必要)」し、
落語家は出場した方が、得はあっても、損はない。