噺家のスタイルは色々ある。

もちろんスタイルと言っても「芸のスタイル」「商売のスタイル」など

様々である。

 

もう15年以上前からパンフなどでふれている話を書きます。

(ですから、今や常識とも言えるベタな話でごめんなさい)

 

 

①古典落語をメインにする、、、

なぜか王道と呼ばれる。


②新作落語をメインとする、、、

なぜか邪道と呼ばれる。

これはなぜか?

→これを提唱する人が、ど素人だからだ。
(ちなみに今や新作を邪道と言う時は、

新作派がギャグで言うか、本当のバカぐらいしかいないが)

今や、古典と新作を両方するのは珍しくないので、

賢明な諸君ならこれについてはお分かりだろうが、、、(タツノコプロみたいな喋りやな)
以下、古典落語を王道と呼んでしまいたくなる説明を書く。


まず落語を知らない人に落語を「見たい」と思わせるには、
 

わかりやすい「本物」感

が必要だ。


もちろん

 

「本物」と「本物感(本物らしさ)」は違う。


日本語で言うと、

リアルとリアリティが違う、

真実とそれらしさみたいなんが違う、、、みたいなことだ。


見たことない人だからこそ、

「伝統っぽさ」

が大事になるので、古典落語という単語を喜ぶ。

 

伝統的なお菓子や食品で
 

「江戸時代から伝わる製法で、昔と変わらぬ美味しさ」
 

と書いてると、「おお!美味そう」と思ってしまうが、、、


もしも本当にそうなら、

江戸時代から何も企業努力していない店でしかない。


もし「卑弥呼の時代から伝わる味」とかだったら、
絶対固いし不味い気がする。。。(知らんけど)

でも我々は「自分で判断できないものは時代の洗礼を受けた」
ということで、保証を得ようとする。

それが「伝統っぽさ」だ。

 

まあこれが古典落語が王道といわれる理由の第一である。

(そして、さっきの「江戸時代から伝わる味わい」と同様、実はそれぞれ

企業努力がされてるのです。)

 

 

また新作落語は、必ず古典落語の延長にある。

多くの新作落語家は古典落語を勉強し、その台本作りや技法を習得し、新しい落語をつくる。

また全く古典落語を勉強せずに新しい作品を作って

 

「これが俺の新しいスタイルだ!今までの落語と一線を画す!」

 

と言う新作落語家が現れたとしても、「落語」である以上、

 

「今までと違う」というところに「前提条件(それまでの落語の存在)」が含まれており、

従来の古典の延長になってしまう。

 

それゆえ「古典落語は王道」であり、新作落語家の多くは

本当に(古典落語家とは違った観点で)古典落語そのものにリスペクトを持つ者が多い。

 

その結果、冗談まじりも含め、本気で新作落語家も

 

「古典は王道」

 

と発言するので、結局、「古典こそ王道」という風になるのである。

 

 

なんか無理からブログを書こうとしたら、本当に古い内容になり、ごめんなさい。

小学校の教科書ぐらい当たり前な話です。

 

まあ「あしたのために、その1(ジャブ)」ぐらいの話や思って読んでください。

 

追記:古典落語の王道を歩んでると評価されてる噺家はどんな人か?

それについてはまた違う話になりますので、、、「明日のためにその10」ぐらいで

喋れたら喋ります。