実は、オイラのマスコミへの第一歩は、流行通信社のインタビュー誌『STUDIO VOICE』だった。

日本ジャーナリスト専門学校在学当時、ある雑誌の批評を書く授業があった。
その際、結構批判的なことを書いたような気がする。

その後、しばらくしてから青地晨校長から呼び出しを受けた。
青地校長は、大東亜戦争中のジャーナリスト弾圧事件『横浜事件』の生き証人でもあり、直接呼び出されるのにはちょいと焦った。

当時のオイラは、学校内でミニコミを発行して小銭稼ぎをしたり、他のクラスの授業に出たりと、ある意味ちょいと悪目立ちしている存在。
何を怒られるんだろうとちょいとビビりながら職員室に入ると、先生方からも「何をしたんだ?」とニヤニヤされながらからかわれる始末…。
かなり冷や汗をかいたのを覚えてる。

結局は、先日書いた批評を見た『STUDIO VOICE』の佐山一郎編集長の目にとまり、アルバイトに来ないかというお誘いだった。
もちろん、こんなチャンスはない!と「もちろん行きます‼︎」と即答‼︎

以来、政治評論家で、小沢一郎に最も近いジャーナリストと言われた渡辺乾介さんに拾われ、麹町に事務所を出してもらうまで、マスコミのイロハをいろいろと教えてもらった。

最初は、インタビューのテープ起こしからスタートし、佐山さんの知り合いの放送作家・岡進平さんの紹介で『ズームイン!!朝!』の全国ディレクター会議の議事録作りに携わったり、著名人のインタビューに連れて行ってもらったりと、本当にお世話になった。
ある種、マスコミ時代の原点とも言えるのが『STUDIO VOICE』だった。

森英恵さんご自身とは、直接お話をする機会はなかったのだが、ハナエモリビルがまだ新しくできた頃だったか、佐山編集長になんかのレセプションだかなんかで連れて行ってもらった時に、ちょいとご尊顔を拝したことがある程度だったが…。

その後、森英恵さんのお名前を聞くたびに、なんか恩義というのではないのだろうが、つい耳を傾けてしまう自分がいた。

青山学院大学近くの酒屋の上が、流行通信社だった。
確か2階が『STUDIO VOICE』の編集部だったかな。
細長く結構狭い空間だったが、振り返ればここがオイラのマスコミ時代のふタート地点だったかもしれない。

森英恵さんの訃報に接し、ついついいろんなことを思い出してしまった一日だった。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。