台東区の重要文化財(建造物)の探訪録(1) | 柵飯事2~shigaramimamagoto ~

柵飯事2~shigaramimamagoto ~

yahoo からの引越し組です。
古生物とジュニアテニスがほぼほぼネタの中心です。
たまにユーロロックや日常についても投稿してます。

 東京都の国宝指定を受けている建造物は四谷の赤坂離宮と東村山の正福寺ですが、なかなか探訪できずにおります。その代わりと言いますか、つなぎで台東区の探訪録を掲載します。
 都心部は近世以降に栄えたことや、空襲により焼け野原になったこともあって、23区内の中世の建造物は目黒区の円融寺、品川区の安養院、そして次回に取り上げようと思っている国博が保有しているものしかありません。
 一方、近世以降のもので文化財指定を受けているものはかなり多くて(例えば橋梁とか)、あまねく探訪することは厳しいところです。
 ただ、台東区は上野の森を中心に重要文化財の建造物が特段多く存在していますので、まとめて探訪しやすいエリアです。そこで、何回かに分けて探訪録を掲載していきます。
 
 まずは寛永寺関係です。
 寛永寺は徳川家康の参謀たる天海によって、現在の上野公園一帯という広大な土地を境内として開山され、江戸城の裏鬼門を鎮守する芝の増上寺と対になり、鬼門を守る役割を果たしたと言われています。
 栄えに栄えまくった寛永寺ですが、戊辰戦争の端緒となった鳥羽・伏見の戦いに敗れた徳川慶喜が江戸に舞い戻り、謹慎場所となりました。そして慶喜の護衛隊である彰義隊の拠点ともなりました。その後に西郷隆盛と勝海舟の交渉により江戸城は無血開城され、慶喜は水戸での謹慎となったことから、強硬派の彰義隊が上野に残り、旧幕府軍として新政府軍と衝突しました。これが1868年に勃発した上野戦争で、旧幕府軍は惨敗。寛永寺は本堂を含めて焼け野原となり、その地に上野公園が整備されます。まさに徳川家とともに盛衰した寺です。
 他方、増上寺はというと空襲で焼け野原となりましたが、いずれの寺も繁栄当時を偲ばせる建造物が若干残存しています。
 

  公園の南側から北側に進むとまずは清水観音堂が現れます。その名のとおり清水寺を模したもので、舞台があるのですが、そこまでの高さはなく、木々に覆われ、舞台からの景色も建物の全景も見にくいです。

 真ん中の松の写真は、歌川広重が浮世絵に書いた月の松で、不忍池の島にある辯天堂が円の中をとおして見ることができます。

 1631年に建造された国指定重要文化財です。

 

 さらに北上すると上野動物園があります。こちらはよく知られている園内にある旧寛永寺五重塔で、後日に紹介する予定の上野東照宮からも入園料なしで見ることができます。現在は都の所有となっているとのことです。
 1631年に建造された国指定重要文化財です。
 
 

  庭園をどんどん北上していくと、御存知、国立博物館に突き当たるのですが、道路を挟んでその右隣のブロックにあるのが、旧寛永寺本坊門です。
 当時の寛永寺は上野公園の噴水辺りに本堂を構え、その北側で国立博物館のところに本坊、すなわち住職の住まいがありました。政治的意味合いで皇族を貫主として招いていたこともあったためなのか、武骨でがっちりとした立派な作りの門です。上野戦争で本堂も本坊も焼けつくしたそうですが、いかにも残存しそうなつくりです。戦争によるいくつもの銃弾の痕跡が目視できます。
 1625年建造の国指定重要文化財となっています。
 

 さらにその北、国立博物館の広大な敷地の裏手には、寛永寺が管理する墓地が広がっています。もともと寛永寺は幕府の祈祷寺、増上寺が菩提寺として棲み分けるはずだったところ、3代将軍家光が帰依してから、徳川家の墓所は適宜両寺院に振り分けて設けられ、敷地内には15代のうち6代の墓があります。加えて最後の将軍である慶喜もここから北に離れた谷中墓地内に寛永寺が管理するところで眠っています (ただし、慶喜は神式。)。
 こちらは常憲院霊廟の勅額門です。5代将軍綱吉の霊廟で、8代将軍の吉宗、13代将軍の家定などが合祀され眠っています。見ることができるのは勅額門のみ。その奥にわずかに水盤舎が見えるのですが、銅製の唐門や各宝塔は見ることはできません。すっきりとしつつもところどころの装飾がなかなか凝っています。
 これらはセットで国指定重要文化財となっていますが、豪華な霊廟は空襲で焼失したといいます。勅額門は1709年の建造です。
 

 こちらは道路沿いにある厳有院霊廟の勅額門と、その奥の墓地のはずれにある水盤舎です。やはり空襲で霊廟など大半の豪華な建造物は消失しています。見学できるのもこの2つで、前者が1681年、後者が1699年の建造。唐門や各宝塔は見ることはできませんが、パッケージで国指定重要文化財となっています。
 4代将軍の家綱の霊廟で、10代将軍の家治、11代将軍の家斉が合祀されています。
 

  最後は重要文化財ではなく国登録有形文化財となっている根本中堂、すなわち本堂です。もとの本堂が上野戦争で焼失した後、1638年に造られた川越喜多院の本地堂を1879年に移築したものです。
 
 外国人観光客がとても多い上野公園ですが、本坊門以北の建造物を見学する方は極端に少なくなります。久能山や日光の東照宮も良いのですが、徳川家の栄枯盛衰を感じるにはもってこいですね。
 
【続く】