2019年のノーベル賞が次々と発表されました。

科学系の3つの分野におかれましてはノーベル化学賞・物理学賞・生理学医学賞で、本年はその中の化学賞がリチュウムイオン電池の開発を実現した旭化成の吉野彰名誉フェローがその一人として受賞を果たしました。

本当に喜ばしい事と言えるでしょう。


ノーベル賞の中でも科学系の3分野の賞は異論があったとしても論文等で比較的客観性があり、本来与えるべきでない人に与えられると言う事はありません。
しかしながら、これと少し趣が異なるのが文学賞と平和賞ではないでしょうか。


文学賞は、その小説等がいかに多くの国の言語に翻訳・発刊されているか等のある程度の客観性のある項目も選考基準にはありますが、小説等にはどうしても選考者の好き嫌い等の恣意的な評価が入ってしまうような気がします。


また平和賞につきましても、今までも首をかしげるような人が受賞する事もありましたが、その時点では平和に寄与している様に見えても複雑な国際関係の中で歴史的な評価では全く異なる評価となる事も少なくないと思います。


例えばミャンマーのアウンサンスーチーさんはビルマの軍事政権に対して非暴力で抵抗し続け、民主化運動を展開した事が評価されて1991年にノーベル平和賞を受賞しました。
しかし、これは単なるミャンマーの国内政治の問題で国際平和に寄与したとは言い難いと個人的に思っています。

さらに最近では、アウンサンスーチーさんが率いるミャンマー政権が、ロヒンギャに対する弾圧を続けておりこれは政治勢力の内政の問題ではなく民族差別・掃討と言う国際世論が最も悪とする重大な課題を生み出していると言わざる得ないのではないでしょうか。
当時はこうした状況を生み出す事は予見できず仕方なかったと言えるのでしょうが。
とすれば、平和賞をその人が生きている間に決定する事は極めて難しく、結局平和賞の存在自身が疑問視されるべきとも言え、本来必要な賞なのか甚だ疑問に思ったりします。

 

不公平だとかそういう話ではなく、純粋に功績を含め称えられるべき人が称えられるのは至極当然であることを忘れてはいけないと思います。

 

 

話は変わりますが気象庁は15日、全国で甚大な被害をもたらした台風19号の名称を定める方針を決めたようです。

台風に名前を付けるのは1977年の「沖永良部(おきのえらぶ)台風」以来42年ぶりとなるようですが、当面は19号の表記を使い来年5月までに定めるとしています。

気象庁は昨年に台風の名称を定める基準を「大規模損壊1000棟以上、浸水家屋1万棟以上、相当の人的被害」などと設定しています。

台風19号は15日時点で多数の犠牲者が出て浸水家屋も1万棟を超える見込みで基準を満たすと判断したようですが正直なところそんな公表は今はどうでもいいのではないかと思ってます。

名称等は後回しにしても何の問題もありませんし、一定の効果が見込めるわけでもありません。

過去から多くの事を学ばなければいけない我々はなぜ今回の台風で現時点で74名の尊い命が奪われてしまい、12名が不明・218名がけがをしている状況です。

そんな中52河川が決壊したが全容は何故不明なのか。

色々と言われてはいますが、マンションを批判するのもおかしいと思いますし、そういったナンセンスな話題ではなくこの度の経験と過去の大切な記録からこれから先どう対処を行い、どう改善していけるのかがやはり問題となります。

しかし、やはり東日本大震災でもマンション問題はフォーカスされ続けていましたが結局の所はやはりそれぞれの危機意識の問題が第一ではないかと個人的には思えて仕方ありません。

やりすぎだと思われるくらいが一番いいのではないでしょうか。

 

また、行方不明の方々につきましては、どうかどうか愛する人達のもとへ1日でも早く戻れますように。。

心より安全を祈念申し上げます。

 

 

 

さとふる