伊能忠敬というと、51才の隠居後から天文や測量学を学び、55才の折から17年の歳月、4万kmをかけて日本中を歩き、江戸時代に詳細な日本地図を作り上げた人物として知られています。

その地図の正確さは、現在の地図と照らしあわせても遜色の無い出来栄えで、それを全国を歩きながら棒やヒモなどの道具用いて計測したというのであるから子どもながらに昔驚かされました。

しかし、伊能が作った日本地図でも、北海道の地図は弟子でもあり間宮海峡としてその名を知られる、間宮林蔵の測量データに基づいて描かれたものであろうというのが最近発覚したそうです。

従来の説では、伊能が測量しきれなかった部分を間宮のデータで穴埋めしたとされていたが、1800年の一次測量の折の伊能の作った函館から厚岸の測量図と、1821年の最終盤の「大日本沿海輿地全図」の画像を重ねると海岸線が数キロメートル離れていることが判明したという。

伊能は北海道を歩測したものの、高齢ということもあってかその後北海道へは征かず、後を弟子の間宮に北海道の測量を頼んでいます。

間宮の蝦夷測量は1811年11月に着手、当時の間宮は32才の若さでもあり、極寒の中でも測量を続け、6年の年月をかけて北海道の測量を終えていて、間宮が極寒の中でも測量をし続けたのは、師である伊能が70を超え、更に肺を病んでいた為とも言われ伊能は間宮が帰国した翌年に73才亡くなっています。

隠居後から、地球の大きさを知りたいとして始めた伊能の測量学。
今回の研究により、北海道の地図の測量が弟子のものであったにせよ、17年の歳月をかけて詳細な日本地図を作り上げた伊能忠敬という人物の偉業は決して揺らぐものではありませんが、いみじくも現代の研究でその地図の違いが判明したものですが、間宮他の弟子たちもそれが分かっていたからこそ北海道の地図データが間宮の測量であることを隠していたのかもしれませんね。