3月10日。東京大空襲から、68年。
テレビでは3月11日の大震災を多く特集していますが、東京大空襲も忘れてはらない歴史の一つです。

昭和20年1月21日から司令官がカーチス・ルメイになり、無差別空襲を立案しました。その手始めとして東京を選び、数十回に及ぶ空襲を行いました。3月10日は特に甚大な空襲であったことから、東京大空襲と呼ばれています。

江東、墨田、台東区が一面焦土となったようで、東京の東半分は焦土になったほか、銀座、神田、大田、蒲田、戸越公園等が焦土と化しています。
東京の下町で8万人以上の死亡者を出した大空襲。

なぜ、ここまで、被害が広がったかというのは、アメリカ軍の緻密な計算と訓練にあると思います。
アメリカ軍は日本の家の構造を徹底的に調べ上げ、畳まで取り寄せ、かなり忠実な日本の家を実際に訓練場に建て、攻撃訓練を行ったとされてます。
これにより、日本の家は爆発力よりも燃焼力の強い攻撃が効果的であることが分かり、燃焼力が非常に強い焼夷弾と呼ばれるものが多く使用されたと言われてます。
また、夜間の空襲であったからも大きな要因だったようです。
夜寝静まったところに、爆撃と焼夷弾の連続投下。

一時は警報を鳴らしていたが、飛行機が通り過ぎた為に解除して安心した所に集中的に爆撃されたとも言われてます。

眠っていた住民はなにが起きたのかわからず、パニックだったでしょう。
一度に広範囲に焼夷弾を投下しているので、あたり一面は火の海となり逃げるところもなく、熱さに耐えかねて川に飛び込む人で、死体が川にあふれ、コンクリート製の建物は大丈夫だと信じた人で、建物内は蒸し焼きになった人で溢れ、お台場には川に飛び込んだ人が漂流するなどしたそうです。
本当に地獄だったと思います。

以前、資料館で写真や絵を見させて頂きましたが、とても言葉にもできませんでした。

民間人の攻撃がなぜ正当化されているのか不思議でしたが、攻撃側の理由は、下町に軍需産業の工場が多く、その生産網を叩くためだったそうです。

今ならピンポイントで工場を攻撃すればすむことですが、この時代はこれしか方法がなかったのでしょうか?

それとも、はじめに民間の大量虐殺目的ありきで、理由は後付けなのでしょうか?真実はわかりません。

そして真実がわかったところで、何が変わるわけでもありません。
ただ、出来ることは、こんな悲惨な経験を、二度と繰り返さないようにしなければならないということと忘れてはいけない出来事の大事なひとつであるということです。


ちなみに司令官のカーチス・ルメイは戦犯とならずに、のちに日本から叙勲を与えられたそうです。
一体誰が敵味方なのかわかりませんね。