近況報告
あ、あけましておめでとうございます♪
すっかりご無沙汰しちゃったのでご覧の方も僅かかとは思うけど・・・
きんきょーほーこくっ!
年明け以降、転職活動に精を出しているくぼたですvv
正確には、昨年末に帰国して東京に寄った時に転職支援会社に面談に行き、年末から年明けにわーーーーっと50社以上に応募をしました。
担当してもらっているキャリアアドバイザー曰く、
「第一志望群がダメだったら第二志望・・・という流れにすると時間も手間もかかるし、その時まで第二志望群の求人案件がオープンとは限らないから、とにかく興味があったり、やれそうと思ったら応募してみることが肝心」
とのこと。なるほど。
とゆーわけで50以上応募をし、1月中旬以降書類選考の結果がどんどん返って来ています。
通過の割合は約20%というところか(←だいたいこんなもんらしいよ)。
先週から一次面接が始まって、今週・来週とあわせて8-9社ほど一次面接の予定が入ってます。
一般的に一次の通過率が30%ほど、二次も同等らしいので、この中で1-2社内定を取れればいいような感じかな。
なかなか現実は厳しいけど(分かっちゃいたけど)、就活の時よりももっと前向きに、最近は特にいろんな業界の人と出会えるのを楽しみながら、転職活動に臨んでいます♪
ちなみに、これまで書類でダメだった理由としては、
「経験、スキルが企業の求めているものと異なったため」
「他の応募者との比較により」
「採用計画の見直しにより」
「離職期間が懸念されたため」
などが挙げられます。
それでもね、職歴に2年も穴が空いてるようなわたしと会ってくれる会社もちゃんとあるので、そういう縁を大切に、各社と向き合っていきたいと思います。
また経過報告なり、結果報告なりしましょうね^^
向こう側
年が変わる前にいろいろ書いておきたいことがありました。
数日前に載せたランキングの続きとか、
ひさしぶりに日本に帰ってきて感じたこととか、
これからのこととか・・・
だけどやっぱりだめだ、飲んだらまじめな事は書けん・・・w
とりあえず紅白を見て一言だけ言うとすれば、
怪盗少女の「あかりん」に感涙。
6人の夢、叶ってよかったね。
また来年、楽しくがんばろっ♪
最後はここへ、宮城 南三陸
最後は南三陸へ。

ここもナニモナイ。
これを見てください。
1段目、2段目、3段目は更地・・・そして4段目からは普通に家が残るこの光景。
これが痛々しい。
高台に住んでいる人たちはどんな想い津波に飲まれていく近所の家々を見ていたのだろう。
日常になったこの風景を眺め、毎日何を想うのだろう。
街を歩く。

石巻はがれきの撤去も見た感じ完了していたけれど、南三陸はまだまだ。
もう2年も経つのに、まだこんな状態なんだ。

人が住んでいた場所とは思えない。
映画か何かのセットのよう。
気温はそれほど下がってないのに、ものすごく寒く感じる。
胸が痛い。
なんだか気分が悪い。
ここにも仮設の商店街。

仮設エネオス。
街の若い女性たちが手掛けるというこのアートも、なんだか痛々しく感じてしまう。
「恵みの海を大切に」
このフレーズ。

その海に全てが奪われてしまったわけだけれど、
「海を恨むことはしない」
という被災者のコトバも・・・。
また、港にはたくさんの船が浮かび、海で働く人たちの姿があちこちで見られた。
強いなぁ。生きるためとは言え、すごいよほんと。
最後に。
当時よく報道されていたのでご存じの人も多いと思いますが、こちらは南三陸町の防災庁舎。

津波が襲いかかる直前まで、町民に防災無線で避難を呼びかけた女性が勤めていた場所。
「大津波警報が発令されました。高台に避難してください」
「6メートルの津波が予想されます」「異常な潮の引き方です」「逃げてください」
「大きい津波がきています。早く、早く、早く高台に逃げてください。早く高台に逃げてください」
ギリギリまで町民への呼びかけを続け、急いで屋上へと駆け上がる。
しかし津波は、3階建ての庁舎の屋上にも達し、

この写真は庁舎の屋上に避難した町職員が撮影した津波襲来の瞬間。
屋上では30人ほどの職員が無線の鉄塔や階段の手すりに掴まっていたというが、津波が去った後に残ったのはわずか10人。
(中央右が防災庁舎の3階部分と屋上)
そこに例の女性の姿はなく、震災から43日後の4月23日に遺体が見つかったのだそう。
町民たちは語る。
「あの時の女性の声で無我夢中で高台に逃げた」
「ただ事ではないと思った。一人でも多くの命を助けたいという一心で、呼び掛けてくれたんだろう」
「あの放送がなければ今ごろは自分は生きていなかっただろう」
「生きていてほしかった。本当にご苦労様。ありがとう」
最後はここへ、宮城 大川小学校
全校児童108人の7割に当たる74人が死亡、行方不明となった大川小学校。
河口から約4キロ離れ、海抜1-2メートルのこの学校は指定避難所だった。
つまり市としても大川小学校への津波到達を想定していなかったわけで、その結果避難が遅れ、大惨事を招いてしまった悲しみの場所。
学校脇に建てられた慰霊碑の前にはこどもの写真を片手に訪れた方が、涙を流しながら佇んでいた。

帰国後、当時の新聞記事を調べていると
「地震が起きたのが土曜か日曜だったら。津波がくるのがもう1時間遅かったら……。みんな家に帰っていたのにと思うと悔やみきれない」
「避難させる学校の判断が遅かった。天災じゃなくて人災だ」
という保護者の声。
心が痛む。

(2階の渡り廊下。河口から4km離れたここでも、2階建ての校舎全てが飲み込まれたのだそう)
所々に児童のものと思われる品々が。これがまた切ない。

手をあわせ、ただ冥福を祈ることしか出来ない。それがまた、つらい。






































