ボクはつねづね「仏教は宗教というより、生きかた哲学でファンタジーだ」といっている。
すると先日、とあるかたから「それは失礼だ」と意見された。
彼は――仏教は、釈尊からはじまり、インドから中国に伝わった宗教である、そして我が国での最澄や空海、日蓮、法然……などの聖の功績をあげ「そんな軽々しいものじゃない」と語気を荒げる。
あたかも「おまえはまちがいだ!」というようすで、こちらの意見を聞くどころか、とりつく島もない。だから早々に話題を替え、早々にお暇(いとま)した。
ボクは、彼を否定する気はない。きっと仏教を厳しい修行のように捉えているのだろう。それはそれでOKだ。だって彼の生きかたなんだから……ね。だれにも、ひとの生きかたを否定する権利はない。
でも、ボクはイヤだ。そんなヘビーなことは、ごめんこうむりたい。ライトに軽やかに飄々と生きたいと思っている。
それにボクは「ファンタジーが悪い」なんて、ひと言もいってはいない。そんなことをいうと、アイザック・アシモフをはじめ、星新一、筒井康隆……みんなに失礼だ。
むしろボクは「素晴らしい!」といいたいのだ。
なぜなら、現代文明の利器(自動車、飛行機、電話などなど)は、だれかが空想したことからはじまっている。ファンタジーは希望の揺籃なのだ。
仏教もしかりである。
いま日本で信仰されている大乗仏教――これらに釈尊(お釈迦さま)は直接には関係ない。だって大乗の教えは紀元200年(諸説はある)ごろに成立した。
釈尊は紀元前500年ごろのひとだから、80歳で入滅した彼の直接の教えである道理がない。そのころに起こった在家による宗教改革の産物である。
だから「わたしは阿弥陀仏に帰依して、念仏をあげてます」とか「うちは南無妙法蓮華経です」なんていったら釈尊は「だれや、それ?」「なんじゃ、それ?」ってとこだろう。だって釈尊は阿弥陀仏を知らないし、妙法蓮華経という経典を読んだこともないからね。
ひとは弱いものである。いつも頼りになる存在を求めている。
仏滅後「よすが」を失ったひとびとが「だったら、つくっちゃえ」と思った。懸命に空想したのだ。それで「お釈迦さまが釈迦牟尼仏なら、ほかにも仏さまがいてもおかしくない」と考えた。
ちょうどウルトラマンがいるなら、セブンやゾフィもいて然るべきだというところ。
さらに過去仏や未来仏なんて発想も出てきた。こうなると、時間空間を取っ払うわけだから、なんでもアリだ。
釈尊よりむかしに仏となっていた存在も設定できる。ウルトラの父や母もOKだ。
でもって西方の無量明(寿)仏(阿弥陀仏)、東方の善徳仏、北方の相徳仏、南方の□(梅の母が丹)檀徳仏……から、専門分野を反映しての――世自在王仏、師子意仏、法意仏、梵相仏、世相仏、世妙仏、慈悲仏、日月仏、蓮華香仏、龍勝仏、瑠璃蔵仏、開智慧仏、特大功徳仏……などなどあまたの仏が誕生。
ところが仏さまは、あの世にいらっしゃるので、この世で活躍するヒーローが必要となり、菩薩が生まれた。そう、観世音菩薩や地蔵菩薩で、ひとびとを救ってくれる。
でも、いつも優しいだけでは悪者をくじけないので、明王が生まれる。「くぅら~っ、バカもん!」である。不動明王や降三世明王、軍荼利明王などが登場だ。
これをファンタジーと呼ばずになんと呼ぶ?
ボクは世界最大のファンタジーだと思っている。そして、このファンタジーは日本の民俗にフィットした。
なぜなら日本古来の神道だって、イザナギ、イザナミ、天照大神、スサノオ、ツクヨミ、大国主……などなどの八百万(やおよろず)の神々が存在する。
いやいや、それどころか実在の人物だって、死後は祖霊となって祀られ神となる。学問の神さまで知られる天満宮の菅原道真などは、その代表選手だ。
ことほどさように、ひとびとはファンタジーが大好きだ。
もっというなら、まずはファンタジーありきで、それを叶えるのが人類の歴史といっても過言ではないとボクは思ってる。
そして仏教の究極の目的は悟りを拓く――つまり成仏することだ。神仏にすがるのではなく、あなたが仏となることである。仏となって、自らが輝ける存在となることである。
20世紀の未来学者アルビン・トフラーが「未来社会(21世紀)の世界は、ひとりひとりが輝く恒星となり、恒星たちが相互にネットワークされたコンステレーション(星座)によって成り立つ」と予言している。
生きかた哲学で、あなた自身が光を放つ仏となり、仲間の仏たちとのネットワークによる星座づくりの一大ページェント……この壮大なるファンタジーに参加してこそ、ボクたちは未来をつくっていくことができるのだ!