このあいだ、あるひとと居酒屋で呑んでいた。
彼(けっこうオッサン)は、我が国の政治の迷走や官僚のウソと保身、大企業のエゴ(特に電力関係)から、中国の暴挙に至るまでをあげつらって、
「いまの世の中は……」
と憤懣やるかたない口調で酒をあおる。自分の主張をくり返す。
最初は年長者ということもあり、黙って聞いていたボクも辟易しだして、
「だって、この世界に恒久平和は訪れないかなね」
そう……ボソッといってしまった。よっぽど衝撃があったのか――眼を丸くした彼は「えっ」と、ボクの話を聞いてくれるようになった。
そうなのである。
残念ながら……この世で世界平和はけっして達成できないのだ。人類の悲願である「恒久平和」は、絶対に実現できないのが、この世というものなのだ。
どういうことかというと――
この世は恒久平和を目指すステージ。つまり「ひとりひとりの修行の場(道場)」なのである。だから、それが達成されたなら、もう道場ではなくなってしまうわけ。もっというなら、この世でなくなってしまうのだ。
だからこそ、この世は尊いともいえる。なぜなら、ボクらを鍛えてくれる貴重な道場であり、成果発表の舞台だからね。
それに――もし世界平和が達成できるものなら、とうのむかしに人類は達成できている筈だ。だって、これまで釈尊やキリストなど、あまたの聖が出現し、その教えは宗教となり、人類を導いてきている。
なのに、そう(世界平和)はならない。
ということは「そうはならない」ステージにボクらはいるということにほかならない。
以前からボクは、
「仏法は宗教じゃなくて『生きかた哲学』だ」
といいつづけている。
簡単にいうなら、そんなにしんどい生きかたをしないで、もっとシンプルに生きてみない? というテーゼである。
そして仏教の生きかたとは「『知慧』の獲得と『慈悲』の実践」である。
こういうと急にむつかしくなる。それでバッタモンの坊主が法話なんていって、やたらむつかしい話を持ち出して、高額のギャラを稼いだりしている。
理論理屈のマッチポンプである。困ったもんだ。
それこそ、シンプルに考えよう。
「かしこくあれ」
「やさしくあれ」
贅肉をそぎ落としたら、結局はこれだけのこと。
仏法では「縁起」を説く。
こちらも簡単にいったら「この世は相互依存で成り立ち、そして移ろうもの」ということ。だから「そのことを理解し、依存関係にある存在を大切にしよう」が「知慧」と「慈悲」に該当する。
つまり仏法の教えとは「世の中はこうだよ」そして「だからこんな風に生きようぜ」ということに過ぎない。それでボクは「生きかた哲学」だと思っている。
この世に世界平和は訪れない。なぜなら一時的にそう見えても結局は移ろうからね。
でも、あなたは別だ。肉体は移ろっても、精神はちがう。
考えてもみてほしい。
そうだね、恋愛をあげようか。あなたが好きなひとに告ってOKだったなら、寒風吹きすさぶ真冬の夜だって楽園だ。恋人に振られたなら、春爛漫であっても虚しい世界だ。
分かったかな? ばれたかな?
そう「世界平和は、あなたの中に存在する」のだ。また、そこ以外に存在しない、存在しようがないのである。
もし万一、世界が戦争のまっただ中にあったとしても、あなたが平和なら、あなたにとって「世界は、やっぱり平和」なのだ。
すべては、あなたの内なるこころに依存するのである。