ブランドは関係性の中にだけ存在できる | 魔法の言霊――寿詞(よごと)説法師が贈る人生のヒント

魔法の言霊――寿詞(よごと)説法師が贈る人生のヒント

おめでとうございます!

『魔法の言霊(東方出版刊)』の著者・橘月尚龍です。
ボクが、この本を上梓したのが2002年――
それから世には同様の表現があふれて玉石混合で、
わけ分からん状態になってます。

そこで本家としてのメッセージを発信することにしました。

 現代社会において――企業や個人のビジネスのみならず、さまざまな活動(ボランティア、社会活動、政治活動、宗教活動……などなど)をおこなう時に「ブランド」ほど重要な経営資源はない状況になってきている。
 にもかかわらず、これほど実体があやふやな存在はない。経済的にそれを特定できるのは「商標」とか「意匠」といったものくらいだ。かといって登録商標だからブランドとはいえないことはサルでも分かる。だれも知らなければ単なる呼称に過ぎない。
 ということは「だれもが知っていればブランドか?」というと、そうでもない。それだけでは、しっくり来ないという「なにか」がブランドである。

 しかし、ひとつだけ確信を持っていえることは……ブランドはブランド所有者と認識(賛同)者という双方向の「関係性」があってはじめて成立する存在である。
 このことについて月刊『企業診断』に連載したコラム「存在意義のストラテジー」から該当個所を引用してみよう。

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 今世紀は「精神の時代」といわれる。それは旧世紀の「モノの時代」に対する猛省から起こったムーブメントと捉えるひともあるが、ボクはちがうと思っている。以前の連載にも書いたのだが……時代の潮流そのものの向きが変わってしまったということである。
 つまり、それは世界全体がパラダイムシフトを起こしているわけだ。いや、もうすでにパラダイムシフトが完了しつつあるのかも知れない。パラダイムシフトとは、地平のでんぐり返りのこと。旧来の価値観が消失し、まったく新しい価値観が生まれている。
 旧世紀は、意識を三次元化することで、さまざまなモノを生み出し、人間社会は経済を発展させてきた。そのおかげで、生活は便利になり、ひとびとは豊かになったと考えられている。そしてまだ、その経済的な拡大幻想はつづいていることも事実だ。
 しかしながら、そのために払った犠牲も厖大なものがある。地球環境の破壊を筆頭に――経済的格差の拡大、こころの荒廃、犯罪の凶悪化・無差別化、国際的な緊張……などなど、ある意味、多大なる借金を抱えてしまったわけである。
 ということは、現在の経済的繁栄――じつは、借金のうえで実現しているといっても過言ではないのかも知れない。まあ、簡単にいえば、飲み屋でツケを溜めているようなもの。飲んで歌って騒いでいる時は楽しいかも知れないが、請求書がまわってきた時には顔面蒼白になってしまう。その請求書が届いたのが今世紀といえるのだろう。
 ボクには「地球がブルッと身震いをして、地平を瞬時に入れ替えてしまったのじゃないか?」と思えるほど、それは鮮やかに静かに起こってしまったという印象だ。そう、ハルマゲドンが高次で起こり、それが現実世界に反映してきているのだろう。
 このことは、そのまま――潮流が入れ替わったことにほかならない。つまり、意識が三次元化するのじゃなくて、三次元の存在が意識化をはじめているのだ。そう、意識の具現化としての三次元の存在であったものが意識に還ろうとしている。だから今世紀は、この意識レベルだけで関係性を結ぶ時代なのだ。

 ……中略……

 さてさて、そうなると……あなたのブランドとの関係は、どうなるのだろ? ここにも旧時代とはちがう細心の注意が必要になる。そう、いままではブランド物を身につけるだとか、そのブランドを利用することがステイタスになっていたが、これからはそうではない事態になるということだ。
 これも潮流の逆流から分析すると分かりやすい――。旧来は、なにかのブランド利用者に帰属することが自分のアイデンティティを支援すると考えていた生活者が、自分という主人公に気づきはじめたということである。そう「意識化」だ。あくまで自分の意識にピピーンとくるか否かが重要になってきた。主客の逆転である。
 かつて、なんでもかんでもシャネルというブランドで揃えていたシャネラーという生活者がいた。ところが最近はあまり聞かないだろう? そうなんだ――こんなブランド依存症は、いまや絶滅危惧種になりつつある。身体中シャネルづくしにしたり、宝石ピカピカは、もはやカッコ悪い側に属すのだ。
 なぜか? もういちどいう。意識の潮流が逆転し、主客が入れ替わってきたのである。

 ……中略……

 分かったかな。生活者はバカでも鈍感でもない。いまや自分のライフスタイルに合わないブランドはお呼びじゃないということ。いや、ライフスタイルなんて生半可なものじゃない――生きかたに合わないブランドは拒否されるのだ。
 これが皮膚感覚で新しい潮流を感じている生活者の本音である。どこまでいっても「主役は自分」なのだ。自分以外は脇役である。よしんば家族や恋人、友人であっても脇役なんだ。それが、あなたのブランドとなると、これはもう、脇役どころか端役にもならないかも知れない。

 ……中略……

 ところがである。それでも生活者は相変わらずブランドを求めるのだ。ただし、このブランドは、旧来のブランドとは一線を画す。どういったらいいのかなあ……新時代での生活者は「自分自身をブランド化してくれることを支援してくれるブランドを欲す」ということだ。そう、やはり潮流の逆転であり、主従の入れ替わりなのである。

 ……中略……

 じゃあ、どうすればいい? これまた潮流の反転をベースに考えればいいわけ。この「顧客第一主義」というのをあっさり捨ててしまうことだ。そして「主役の明け渡し」なんだ。えっ、辻褄が合わないって? たしかに従来の発想では矛盾しているように見える。
 いいかい。この「主役の明け渡し」に「お客さまの世界では」という修飾語をつけると分かってくるだろう。ならば「あなたの世界」では「主役の明け渡し」は必要ない。あなたはずっと主役でいつづけられる。
 なのにこれまでは「顧客第一主義」といいながら、お客さまに「ああしろ、こうしろ」「あれはダメ、こうしちゃいけない」と土足で踏み込んでいたことに気づこう。お客さまの世界では、お客さまの勝手で、いいんだよ。それを土足で踏み込んじゃいけない。
 ということは、あなたの世界では、あなたの勝手であるということ。つまり、あなたの世界でまで、主役を明け渡す必要はない。あなたが主役でいいのである。そう、まさしくアイデンティティだ。へんに卑屈になって、土足で踏み込まれてもいけないんだ。

 ……中略……

 そのうえで、あなたの役割をお客さまに知らしめることである。つまり、各々の世界での主役どうしのおつき合いということ。もっというなら、お客さまはお客さま自身というブランドの構成要素として、あなたというブランドを必要とするわけだ。あなたはあなたのブランドを輝かせるためにお客さまが必要となる。
 分かりやすくいうなら、サッカーのアシストとシュートの関係だ。お客さまがシュートをする時、あなたの的確なアシストが必須だ。お客さまから見れば、あなたは脇役である。でも、あなたから見るならば、お客さまはあなたが得点するために必須の脇役なんだよ。

 ……中略……

 言い換えるなら、関係するひとや企業の数だけ足場が存在するのだ。その足場をしっかりと支える「なにか」がブランドということができる。そしてその「なにか」は意識の交流下における「関係性」の中に存在し、輝くのである。

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 そうなんだ。
 ブランドとは相互に認め合う関係性の中にだけ存在する。というか、それ以外のステージにブランドは存在し得ないとうこと。
 このことを忘れてブランドづくりは成立しないことに気づこう。