人生というゲームについて | 魔法の言霊――寿詞(よごと)説法師が贈る人生のヒント

魔法の言霊――寿詞(よごと)説法師が贈る人生のヒント

おめでとうございます!

『魔法の言霊(東方出版刊)』の著者・橘月尚龍です。
ボクが、この本を上梓したのが2002年――
それから世には同様の表現があふれて玉石混合で、
わけ分からん状態になってます。

そこで本家としてのメッセージを発信することにしました。

 これまでで、もう「危険な言霊を発するのは、ひとまずヤンペしておこう」と思ってくれただろうか? ならば重畳だ。

 そこで「魔法の言霊」についてのお話となるのだが……その前に(人生の)設定について解説しておきたい。いうなら寿詞説法師流の考えかただ。これからの説法のベースとなるものなので、どうしてもお話ししておかなければならないのだ。
 もし、あなたが「もっと、ちゃっちゃと進んで、魔法の言霊生成法を知りたい」と考えるなら(ちょっとお金はかかるけど)ボクの著書『魔法の言霊』シリーズ(東方出版刊)や『魔法の繁盛錬金術(同友館刊)』を本屋で注文してくれ(^_-)


 それでは今回のテーマである「人生の捉えかたと設定」について、お話ししよう。


 ボクは「人生はゲームだ」と思っている。こういうと「不謹慎な」とか「なんと不埒な」「舐めてんのか」といった反論もあるだろう。あって当然だ。そこでボクの著書『魔法の言霊(東方出版刊)』から、そのくだりを引用してみよう。


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人生ゲームのプレイ法


 人生はゲームだ――。
 むかしから、よくいわれている言葉だが、ある意味、とても顰蹙(ひんしゅく)を買う言葉でもある。人生は遊びだといってるのと同じだから……
 でも考えてほしい。


 人生は、そんな甘いものじゃない!
 人生は、辛いことばかりだ!
 人生は、真剣勝負の戦いだ!


 こんな風にいってるひとの日常を見ていると、たしかに苦しいこと、辛いこと、悲しいことの連続になっている。そのひとは、こう自分に言い聞かせることで、自分自身を叱咤激励し、奮い立たせているみたいだ。ひとそれぞれの考えかたがあり、ひとそれぞれの人生だから、とやかくいう気はないけど、ボクはイヤだ。


 ボクは――
 いっぱいの友だちと、素敵な世界で、
 ワイワイ、ガヤガヤと、
 明るく、楽しく、陽気に、暢気(のんき)に……
 一生を送りたいと思ってる。


 だから、それこそ真剣に「人生はゲーム」で、死ぬまで遊び倒してやろうと考えているし、その最大の遊び道具が「魔法の言霊」だと思ってる。あなたも、せっかく本書に縁したのだから、存分に楽しい人生を送ってほしい。

 でもきっと、あなたは「これまでの人生、楽しいこともあったけど、悲しいことや辛いこともいっぱいあった。きっとこれからもそうだと思う。だから遊び倒すなんて……」というかもしれない。もちろん、ボクもそうだと思う。人間は感情の動物、喜怒哀楽があってこそ人間だ。腹を抱えて笑っている犬や猫を見たことはないし、もしいたなら、それこそ気色が悪い。


 ――でも、本書の中では、こんな風に考えてみない?


 あなたは生まれてくる前に神さまから、人生というゲームソフトを買った。そして一生を通して、そのゲームをプレイしている――いまは、その途中。

 例えば人気ゲームソフト新作発売の光景を思い浮かべてほしい。そう、ドラゴンクエストやファイナルファンタジーだ。量販店やコンビニのまえには、発売前日から徹夜組が出て、それがニュースになったりしている。

 どうして、こんなに人気なんだろう?

 ――それは、むつかしいからだ!

 考えてもみてほしい……新しいソフトを買ってきて、プレイをはじめたら、いとも簡単に敵をビシバシやっつけることができて、あっというまに最終面。ボスキャラ登場で、エイヤーッと、一撃を喰らわせたらHPもMPも消え失せ、すぐに倒せてゲームオーバー。こんなゲームは絶対に売れない。なかなか攻略できないからヒットする。

 さて、あなたが神さまから買った人生ゲームソフトはどう? なかなか攻略できず、遅々として進まないって? おめでとう! クソゲーじゃなくてアタリを買ったんだね。神さまも気合いを込めて開発した高級品だろう。感謝、感謝。


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 どう?
 これが人生というものに対する――ボクの基本的な考えかただ。つまり、あなたという存在は、この世にゲームを楽しむために遊びに来ている。でも遊びかた(ゲームのコマンド)を知らないと面白くない。それが「魔法の言霊」という寸法だ。


 ところがである。
 ボクがこのテーゼを出してから、いろいろと勉強したところ、ボクよりずっとずっとむかしに「このこと」を示していた文献があったのだ。

 現在執筆中の『非責任のススメ ―思うがままの人生を送る魔法の生きかた―(仮題)』から、その部分を先行して掲載するね。


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 先に述べた「人生は所詮、ゲームである」というテーゼを掲げたボクは「だから、遊び倒して人生を楽しまないと損だよ」と、ほうぼうで自説を展開していた。……(中略)……じつをいうと、これについてボクは、ずっと自分のオリジナルであると思っていた。

 ところがである。その後、約一○年間、いろんな勉強をしていくうちに同じことをいっている書物を発見した。それも、約一五○○年もむかしの代物だ。
 ここでは、その話をしよう。


 あなたは「観音(かんのん)」さまを知っているだろう?
 そう、仏法の教えに登場する「観世音(かんぜおん)菩薩(ぼさつ)」とか「観自在(かんじざい)菩薩」とか呼ばれる菩薩のことで「聖(正)観音」や「千手観音」「馬頭観音」など……あなたも、いろんな仏像や仏教絵画を眼にしたことがあると思う。
 また「菩薩」のほうも聞いたことがあるだろう。ほれ「あのひとは菩薩のようなかただ」なんていうだろ? この場合の「菩薩」は「やさしい」とか「温和」「親切」「慈悲深い」などの褒め言葉として使われる。


 それもその筈で、大乗仏法では「菩薩は成仏(悟りを拓くこと)を約束されているのだけど、一般衆生を救済するため、この世で大活躍する存在」とされているからね。つまり「ひとびとが成仏するのを強力に支援する」わけで、まさに仏法版のスーパーヒーローだ。
 仏さまでも「無量寿仏(阿弥陀仏)」なんかは「みんながみんな成仏するまで、自分が成仏するのはペンディング(保留)するよん」なんて宣言したものだから、それはそれはファンが急増。だから信者は念仏といわれる「南無阿弥陀仏」を称えて……つまり「阿弥陀仏さんに全面的におまかせ」と救済を求めるわけ。


……(中略)……


 ここらで話を戻すと……この観音さま、もともとは大乗仏典の法華経の中に登場する。正確にいうなら、訳僧として高名な鳩摩羅什(くまらじゅう)訳の『妙法蓮華経』の中に描かれているのだ。この『妙法蓮華経』には、序品(ほん――章立てのこと)第一からはじまる、全部で二十八の品があって、その観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんほん)第二十五がそれだ。

 経典の中では、観音さんについてのキャラクター解説や行動、所在、役割、等々が詳細に述べられている。ところが、その守備するところが極めて広範囲に及ぶため、ひとびとはとてもありがたがったので、やがて章が独立して『観音経』となった。


 その『観音経』に「遊於娑婆世界(ゆうおしゃばせかい)」というところがある。そのまま訳すると「娑婆世界で遊んでる」となるのだろう。娑婆というのは、いまボクたちが暮らしているこの世界だ。ほれ、ヤクザ映画などで、塀の中から出てきた連中が「娑婆のメシは旨いなあ」なんていっているだろ(微笑)。

 もちろん主語は観音さまだから、いま風に超訳すると「観音さまは、この世で遊びまくっている」となるわけ。この娑婆世界に対するのが極楽世界とか寂光(じゃっこう)世界といわれる仏界で……あの世のことである。


 なんでまた観音さまは好きこのんで、この「うまくいかない世の中」に遊びに来たんだろうか?


 それは、あまりにも暇だったからだ(笑)。


 だってさ、あの世は仏さまの世界だぜ。いくら「仏になることが保証されている」といっても、観音さまは菩薩だから、まだ仏じゃないわけ。かといって仏界は完全無欠の世界だし、無量寿仏さんが和尚として取り仕切っている。跡継ぎといっても、まだ修行中の分際では、和尚の方針は守らないといけない。

 さらに困ったことに――無量寿仏和尚は「みんなが成仏するまで現役続行」と宣言して、引退はまだまだ先のこと。順番が詰まってる。そらあ、暇だわな。

 そこで観音さまが、
「和尚。こっちの世界は平和すぎて、いっこうに修行が進まないんで、ちょっくら、あっちの世界に修行にいってきまっさ」
 というと和尚は、
「そうか。ほな、がんばれよ」
 てな感じだろうか。
 そして、
 あいつはまだ、遊びたい盛りだからのお……
 無量寿仏和尚は、つぶやいた――
 というところだろう。きっと、そうにちがいない。


 だけど、この世で遊ぶためには、ひとの姿でないといけない。役柄も設定しないといけない。どんなシチュエーションかも大切。そこで『観音経』には、観音さまの変化である三十三身が記載されている。ある時は王さま、ある時はお金持ち、またある時は僧侶、尼僧、在家信者(仏典だからね)、してある時は貧乏人……という具合に。

 こうなってくるともう、なんでもアリで――老若男女・みんながみんな、ということになる。つまり、この世で暮らす人間が全員、網羅されるわけ。


 当然のことながら、この秘密――裏のカラクリを見抜き、解読した聖はあまたいる。
 たとえば江戸中期に曹洞宗の僧侶・天桂伝尊(てんけいでんそん)が『般若心経止啼銭(したいせん)』で――


 観自在とは異人にあらず、汝、諸人是れなり。なにをか観自在といふ。眼を開けば森羅万象ありありと現れ、耳に通ずることは無量の音声(おんじょう)間断なし。六根皆な是の如く……<中略>……六根共に互いに融通して礙(さえぎ)ることなし。如是(かくのごとく)に観ずることの自在なる故に、各人の自己を指して観自在菩薩といふなり。


 と述べている。


 また臨済宗の禅僧・盤珪永琢(ばんけいようたく)も――


 観自在菩薩、自らのことなり。自らならば、なぜ観自在ぞと云う中に眼を開けば、山河草木、青黄赤白黒、大小方円きらりと顕れ、耳に通すること千万の音、六根皆その如く……<中略>……少しもたかひに、さへることなきなり。是れ観ずることの自在なるゆえに、人を指て観自在菩薩と云うなり。


 と『心経抄』の中で、より平易に分かりやすく解説している。


 なぜだか、このカラクリを見抜いた聖は禅僧に多い。
 この禅宗――一般的には仏教の宗派とされてるけど、むしろ「道教の嫡子」といわれている。インドで興った仏教が中国にもたらされ、神仙思想の普及版である老子の思想と合体したハイブリッドバージョンだ。
 道教ってのは、ほれ「この世はみ~んな『道(タオ)』の顕れだから、本来は一切の拘束なんてない」という考えかたのこと。

 でもって、そんな観自在な(笑)発想でのアプローチで「観音さまとは、この世に遊びに来てるあなた、そしてボク」と正体を見抜いたのである。ファンキーやねえ!


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 ことほどさように――懸命に修行をしたひとも「やっぱ、人生はゲーム(遊び)だ」といっちゃってるわけ。


 で、あなたはどうよ? 厳しい修行をしたいかい? 
 ボクはイヤだ。身体が弱く弱虫で虚弱体質のボクは、健康の面でも精神衛生からも、ゴメン蒙りたい。


 だから「人生ゲーム」なんだ。こう考えると、ひ弱なボクでも楽しくなってくる。そして「魔法の言霊」というコマンドを使って遊びまくってやろうって気になるわけさ。