仏法談義 | 魔法の言霊――寿詞(よごと)説法師が贈る人生のヒント

魔法の言霊――寿詞(よごと)説法師が贈る人生のヒント

おめでとうございます!

『魔法の言霊(東方出版刊)』の著者・橘月尚龍です。
ボクが、この本を上梓したのが2002年――
それから世には同様の表現があふれて玉石混合で、
わけ分からん状態になってます。

そこで本家としてのメッセージを発信することにしました。

 ボクが「ほしの宴」のセミナー(説法)をする時や、その後の饗宴において、思いのほかリクエストが多く、話題になるのが仏教の話だ。

 まあ、日本では江戸時代までは、地域のお寺が檀家制度によって戸籍管理の役所代わりだったり、寺子屋といった学校の役割を担っていたので、ほとんどの日本人が(いま信仰する宗教は別にして)仏教と深い関わりを持って生きているからだろう。

 にもかかわらず、これまた思いのほか、たいていのひとは仏教そのものについて(自発的にでない限り)ことさらに勉強する機会はない。また勉強しているひとだって、自分の宗門宗派に関しては詳しいが、それ以外については知らないことが多い。さらに仏教の成立や推移の過程なんて、学生時代の歴史の時間に学んだ程度だろう。

 だから、かえって興味をそそられる対象になるのかも知れない。そこで、ここ「ほしの宴」のブログとして『仏法談義』をアップしよう。内容についてはリアル「ほしの宴」などで話題になったこと等を書いたmixiのブログを加筆修正している。

 また内容については、あくまで寿詞説法師流の解釈でありテーゼである。反論や批判がヤマモリかも知れない。それはそれで、よろこばしいことだ。なぜなら、日本人の精神的な背景であり、民俗習慣の基層について、いまいちど考える機会になるだろうから……



 このところ、会うひと会うひとに――仏法の話を求められる
 ボクは僧侶でもなければ、仏教学者でもない。まあ、たまたま民俗(魔術?)研究をライフワークとしているので、一般のかたより若干、民俗宗教に詳しいという程度だ。
 それで、これまでは、よく神道系の話を求められた。なのに最近は、仏法に……潮目が変わったのかな? と思うきょうこのごろだ。


 このことをボクなりに考えてみた。

 私見だが――たしかに神道行事は仏教行事に比べてカッコイイことが多い。幽玄な雰囲気に包まれた神楽や雅楽、火の祭りに水の祭り、緋袴がお洒落で艶っぽい巫女さん……いうなれば、雅でファッショナブルなのだ
 ところが、神道は摂理の世界であって、そこに愛情はない(愛そのものじゃないよ)。ひとびとが、そこはかとなく感じる暖かさというか、人情というか(う~ん、言葉にしにくいなあ)……そんな感情とは別次元の――超越した「理(ことわり)の世界」だ。もっというなら、凡人には冷徹な印象なのかも知れないね

 これに対して仏教には、衆生を救済するという「慈悲」の思想がある。ひとは弱いもので、この部分にウルウルきてしまうのだろう。ましてや、混迷をつづけ不透明な世の中で、手を差し伸べてくれる存在に頼りたくなるのも人情というものだ


 でもね。このウェットな感覚は、日本仏教独特のものであることを知っているひとは、思いのほか少ない。元々の釈迦仏教には存在しなかった。

 釈尊の説いた教えは、それこそ(神道と同じように)摂理そのものだった。これを仏法では「縁起」という。そう、原因があって結果があるという「因果応報」の原理だ。そしてまた、結果から原因に遡り、これを消滅させるという法則である。つまり、輪廻転生という循環から解脱すること。その方法として釈尊は「四諦八正道」を説いた
 この四つの尊い真理は「苦・集・滅・道」とされ――「人生は『苦』である」「それは執着や愛着などの欲望を『集』めるため」「だから一切の欲望を『滅』することが悟りの境地」「そのためには正しい『(八正)道』を歩め」となっているのだ。

 ここで面白いことは「四諦」の順番である。ふつうに考えるなら、悟りの獲得である「滅」がゴールのような気がするのだが、正しい生活を送ることが最後にきている。すなわち、人間が生身である限り、悟ったからといって日常が消失するわけじゃない。やはり、それは厳然と存在する。だからこそ「正しく生きろ!」という、ある意味、人生哲学ともいえる内容だったわけ。いってしまえば、極めてドライなのだ


 ところが、この仏教が日本に渡来し根付く過程で、それまでにあったアニミズム(まだ原始神道とも呼べないほどの神信仰)と結びつき、親しい人間関係のようなウェットな宗教に変身してしまう。そして釈迦仏教にはなかった身近な「浄土」というイメージ世界を形成する。

 つまり、すべての存在が移ろいゆくという「無常感」と、その救済である「浄土」希求だ。これは釈尊が説いた「すべての縁起的な事象は『空』である」というドライな理法ではなく「人生はまぼろし」的な虚無感に近い。極めてウェットな感覚だ


 ここしばらくで、ボクの話を聞きたがったひとたちを凝視すると――どうも、ウェットな救済を求める心境にあるようだ。まあ、いってしまえば、それほど世の中が殺伐とし、救いのない状況なのかも知れない
 ボクもずっと摂理の話ばかりしてきたけど、ここはひとつ「慈悲の話をしろ!」と天に求められているのかなあ……



 失われた20年が終わろうとする時に起きた大震災。いくらアベノミクスといっても、それは一部のひとのことで、庶民感覚とはほど遠い。さらに追い打ちをかけるように民主党政権が仕込んだ時限爆弾である消費増税が、まもなく実施される。

 きっと、この国のひとびとの生きかたが、いまいちど試されているのだろう。そんな時だからこそ、仏教(的な生きかた)が希求されるのだとボクは思っている。