能登地震進まない復旧

 

神戸新聞朝刊(2024/7/1)によると熊本地震と比べて、復旧が進んでいないという。

これは、現地の実情を知らない、あくまでも私の感想ですが、知事によっても、それは、影響を受けるのではないかと思っています。

 

私の場合、前和歌山県知事仁坂さんを基準に考えてしまいます。

 私の目には仁坂さんは「県知事」というよりは「一国の主」。従って「国」ですら「従者の一部」というように映りました(※後述1)。

 

 少なくとも、神戸新聞を通して能登地震を見る限り「馳知事」が何かをされたかと問われると「何も浮かんできません」。

 また、安倍さんから「かくかくしかじか」の話があったという件についても「自分」が感じられず、うやむやに終わった印象が強い。

 

 今日における「選挙」とは、一体何なのでしょう?

 

 結局、我々が「言いたいことは、好き勝手に、言いたい放題できる」けれど、それは「目の前の一部分」だけで、全体を「決定」しているように感じます。

 そして、その我々が「投票によって議員さんを選ぶ」結果の「世の中」になっている。

 

 縦(心)のない、横(見た目だけの、聞いただけの理解しかできない社会ではテレビに出たり派手な行動を取ったり)、つまり肉体を提供することがもっとも有効な手段となる(←1989/9/19記)。

 

 東京都知事選挙をみていると、横をどう利用するかが主となり、本来の「人を選ぶ」ことが、脇に置かれてしまっているように感じます。

 

 これはもう元に戻せないように思う。

 

 これが、能登地震についての新聞記事からの思いです。

 

※後述1

 兵庫の斎藤知事は就任時、最初に述べられたのは、財政など時間のかかるものでした。

 コロナ禍真最中だったので、違和感がありました。

 また、県会で「もう少し県庁に近いところに住んではどうか」言われたのに対し、それに応じるとは答弁されなかったことにも違和感がありました。

だから「50人、500人ではなく500万人の命を預かっているという自覚がない」斎藤知と評しましたが、私にとって「百条委員会」はなんの違和感もありません。

既述の通り、政策は「教科書丸写し(いまではAI)」で充分。

そうではなく「人物論」でみるのが、一番確かです。

そのためには、まず自分をしっかり確立する事。そしてそれが感じる具体的な人(私の場合は江田憲司さんや仁坂前知事)を見つけ、その人と候補者を比較すれば、割かし、簡単に可否を決められると思います。

 

 

 

     2024年7月2日    井筒屋 弟二郎