広末さん、猿之助さんのこと

 

浮気をする人、神さんはその人が家族や子供のことを考えて行動するように創ってはらへん。

 

心神喪失というが心神喪失などなく、頭で考えて行動する我々への肉体の復讐。

 

広末さん、猿之助さん、ましてやその家族の方々が我々にどんな害を与えはったと言うのだろう?。

 

にもかかわらず、重罪を、マスコミは課す。

 

「その人の美意識がその人の人生を左右する」とするならば「研ぎ澄まされた頂点にある『完成された我が美意識』を守るため、尊厳をかけて『死』を選んだ」と言うことになるけど、気の毒に。

同様の「美意識」から、マスコミは『マスコミの尊厳をかけて、書かない』と言う選択肢はなかったのだろうか?。

 

そう言えば、以前、テレビで、中村敦夫さん主演の、記者ものがあり、そのドラマの中味は「取材はするが、結局、毎回、それを没にする」というものだった(この主人公なら、きっと、匿名で所属事務所に「かくかくしかじか」と告げ、記事は『没』にしただろう)。

今は「お笑いタレント全盛期」。

この二つだけの比較からは「日本沈没」と言ってもいいように思う。

 

「俺はこれをやらない」=「人間が人間の尊厳をかけて人間に逆らう」。ほん最近まであったのに。どこへ行ってしまったのだろう?

 

同様、沈没前の人は「わたしは古い人間」(←豊田社長)。「それが私の限界」(←山田監督)。また、私の記憶では、国会で、加藤紘一さんが「禅問答」のような質問をされた。

それらの方々の前では「恐れ入ります」と、ただただ「ひれ伏す」だけです。

 

結局、ここでの「日本沈没=自省の沈没」。テレビで見る限り、様々な事件の当事者に、一昔前までの「『罪を犯した』という『罪悪感』はあるのだろうか?」と思ってしまう。

 

一つは私の場合は、既述の通り「井ノ口部落の皆から『お前はえしこい』と言われたくない」があった。

もう一つは、毎日のようにスマホに飛び込んでくる誘引文。発信者に、果たして「達成感」以上の「罪悪感が生まれるだろうか」である。

 

先日、49日法要に行った。

「1時間半ほどかかる」とのこと。

読経がはじまる。なにを言っているかさっぱり分からないまま。でも、いつも不思議なことに、意外と退屈しない。が、時間が過ぎるにつれ、突然「おじゅっさん、広末さんやウクライナのこと、色々な事件のこと、どう思ってはるのやろ」と浮かんできた。

心のどこかで「これって、おじゅっさんの担当ちがう?」と思ったのだと思う。

 

とは言え、今日日檀家も少なくなり、それどころじゃあないだろう。重石としての自然に期待できないないし、部落の無言の掟もないし、結局「法と週刊誌」しか、心にブレーキをかけるものがない以上、渋々「日本沈没」ではなく、これが「デジタル社会」として受け入れるしかないか。

おじゅっさんのお経を聞きながら、ぼんやり考えた。大変だ!。

 

 

      2023年7月4日      井筒屋 弟二郎