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先日、「わかるとできるは違う」ってよく言うけど、それってわかった気になってるだけなんじゃないの?
みたいな記事を書きました。
今回はその反省、というか「やっぱりわかるとできるは違うよね」みたいな話です。
裏表ってやつですね。最近こういうの多いな。
少林寺拳法関係者との話
先日、某所で少林寺拳法の先輩と飲みました。
こいついつも飲んでんな、と思った方はその気持ちをすっと胸に秘めておいてください。
多くの場合、技術談議になりまして、その技術談議の方向は「こうするとより強くかかる」みたいな話だったんですが、その方が語ったの目まぐるしく変化しまくる動きでした。
正直身体能力では私なんぞでは足元にも及ぶわけもない超絶フィジカルお化けなわけですが、その人のスピードをもって変化しまくられるとこれはもう、わかるとかできるとかいう次元じゃねーぞって言う感じでした。
物売るっていうレベルじゃねぇぞってやつですね。
そういうことを考えると「わかる」という理解、あるいは頭の働きでできるかどうかを論じること自体無意味なことなのかなと思いましたというお話です。
技術との向き合い方
これは私の反省です。
そもそも私が「わかるとできるは同じじゃね?」と思ったのは何故なのか考えたところ、先にも書いた通り「頭の働きで技の「できる」を評価できてしまう」と誤解したことにあるのかと思います。
反射速度や、身体操作といったことを意識しないで語れるレベルに、自分の「技」の範疇を制限してしまっていたのかと思います。
フィジカルも圧倒的な技です。力も技だと思っています。
力に頼ってしまうような技、も私は究極的には良いのだと思います。さらなる上達を求めるのであれば自分で「力を極力抜いてもかかるように」という制約を入れればいいだけの話なので、かかれば何でもいいんです。
敢えて「四肢がなくてもかかる技」なんてものを通常想定しないように、力が入っていてもそれでかかるならいいじゃないですか。
自分の持てる通常の筋力でなんとかできるというのは、体捌きや手捌きを工夫したり、間合い・拍子をうまく整えて掛ける技よりもよほどコスパがいいしミスの生じないいい技だとも思います。最も「筋力はいずれ失われる」ということはありますが、失われ出したら補えばいいんじゃね、という考えもあります。
話は脱線しましたが、もう少し自分の技の幅を広げてみようと思いました。
感謝感謝^^
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