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少林寺拳法には鎮魂行という修行があります。
鎮魂行の中に半跏趺坐のまま瞑目をする時間があります。坐禅や瞑想と言われるものですね。(少林寺拳法は結跏趺坐ではなく半跏趺坐で行います)
この時に呼吸に注意を向けること、特に吸う時(吸気)に『宇宙の霊力、我が体内に入る』と観念し、吐く時(呼気)に『ダーマの徳性、我に発する』と観念せよと教えられます。これが鎮魂行の観念である、と。
でも正直難解でして、よくわからん部分があるのが正直なところです。
吸って吐いてを繰り返すたびに「・・・入る」「・・・発する」「・・・入る」と繰り返すんですかね。それはそれで良いと思うのですが、少し物足りない(こら)
私は調息法(呼吸)は、以前書いた『循環』を感じつつ「体外(自分の「外」のもの)から力を得て、そして自分であったものを外に出す過程に見られる、自己と世界との関わりを知るもの」と思ってます。
ただそれは調息法です。
いわゆる坐禅・瞑想はなんなんだろうと悩んでいました。
リバースエンジニアリング
システムエンジニアの世界の言葉のようですが、『リバースエンジニアリング』という言葉を最近聞きました。
専門ではないので間違えてるかもですが、仕様書とかが存在せずブラックボックス化してしまったシステムの仕様を明らかにするもののようです。
職場でも結構そういうシステムはありました。古いシステムって仕様書残してない、もしくは作ってさえいないもの、ありますよね。マジ困る
そういう時に、いろんなインプットを入れてみて、そのアウトプットを見る。そして推測する訳です。「これってこういう計算してるのかな?」と。
そして当たりをつけたら、また他のインプットを入れてみる。今度は「これを入れたら、こんな数値が出てくるはずだ」と推測しながら。そして出てきたアウトプットが推測値と一致していれば、ブラックボックスであったシステムが「わかった」ことになります。安心してお仕事ができる訳です。
もっとも、変数の組み合わせで思いもよらない挙動を示したりして、なかなか「完全にわかる」ところまではいかないのですが。あくまで「部分的にはわかった」までですね。
自分というブラックボックス
人間は、なんであれば『自分』は、よくわかってるようでわからないものです。
自我が芽生えた時にはすでに『自分』はそこに在り、まわりの環境も、自分の名前も、身体も、もしかしたら性格すらも、既にあるものとして僕らの意識的な人生はスタートします。
ブラックボックスなんです。
身体的な「自分の出来ること/出来ないこと」は目に見えるので比較的わかりやすいですが、精神的・感情的な自分はわかっているようでなかなか分かりにくい。
どういう時に喜びの感情に包まれるのか、安心できるのか、怒りに思考が奪われて短絡的な行動を起こしてしまうのか、極端な感情変化はブラックボックスであることが多い。
業務上使用するシステムのブラックボックスも「マジ困る」ですが、自分自身のブラックボックスこそいよいよ「マジ困る」なんです。一切皆苦ですね。
この自分(の感情)というブラックボックスに、いろんな感情の去来(インプット)と、そこで湧き上がる自分の情動(アウトプット)をまずは客観的に観察し、「あー、俺はこういう時にこういう感情が湧き上がる人間なんだな」と向き合う。
そして、自分を知っていく。
そういうことが坐禅であるとか瞑想の修行(の一つ)なのかな、と思い最近は鎮魂行を行っています。
もちろん単なる私見ですが、皆さんは坐禅の際に何を意識していますか?
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