松戸上本郷道院のブログへようこそ!


今日はあまり金剛禅の確たるテーマで話すと言うより、のんびりとお話しできればと思います。


ブログを書け、と言われましたのでたまにはこんなトーンで失礼します笑


私個人の見解が多いのでその点お含みおきください。また、超絶マニアな感じです。苦手な方はご注意を。





循環するということ

金剛禅の修行には「食養」「排泄」「休養」なんてものがあります。


あまり修行っぽくないですよね。なんでこれが修行として敢えて挙げられてるのだろうかと私も悩みました。


思うにこれは新陳代謝、言い換えれば「循環」に関わるものだからと考えています。


食事だけではありません。呼吸も循環です。


鎮魂行では瞑目中、調息(呼吸)に意識を持たせます。息を吸う(吸気)際には「宇宙の霊力我が体内に入る」、息を吐く(呼気)際には「ダーマの特性我に発する」と観念するようです。


これだけ聞くと(本当に)怪しいですが、私たちは酸素を体内に取り入れて、そこからエネルギーを得て二酸化炭素を外部に出します。その過程を表すものと私は思ってます。


循環を怠ると、例えば食事であれば栄養失調になったり、排泄物を溜め込めば体に不調が起きたり、呼吸に至っては数分行わないだけで死に至ります。


循環ってすごく大切だな、と思います。




自他の境界

循環あるいは新陳代謝を考えると、少し大袈裟かもしれませんが、外部のものを自分の中に取り入れ(他の自己化)、そして自分であったものを外部に排出(自己の他化)をする工程と考えられるのではないでしょうか。


実際、胃袋の中は解剖学的には体の『外部』であり、栄養素が細胞膜の中に取り入れられたときに内部に入ったと捉えるようです。知らんけど。


私たちの体は生来固有のものではなく、シンプルに私たちが食べたものでできています。


父母より受けたる身体は確かにある。だけども、元素単位でみると新陳代謝が繰り返され、ずっと自分のものである元素はほとんどないのではないかと思います。ここら辺は専門的なところは分かりませんが、日々新陳代謝があることだけは事実のようです。


私は常に私を捨てながら新しい私を作っていく。エモい!(そうでもない?)



真に自分であるもの

循環の中で常に変化し続けていくのが生物の逃れられないさだめであれば、「真に自分であるもの」はなんなんでしょうか。


福岡伸一先生の「動的平衡」という概念は私は非常に好きでして「常に変化しているが(動的)同時に全体として留めようとしている(平衡)」という力に生命の根本を見出そうとするものと理解しています。


体は「新陳代謝」という概念で想像しやすいと思いますが、意識・思考・心はどうでしょう?


私はもちろん、この問いの答えを持っていませんが、あくまで私個人の思いとしては「心も体と同じ感じじゃね?」とざっくり思ってます。ほんとに知らんけど。


アイデンティティ、自己同一性などと訳されますが、自分の精神は生まれた時から同じ人間として同一のものです。しかし年齢とともに変わっていく部分もあるでしょうし、外部からの影響を受けて変化することも多々あるでしょう。


自分は◯◯である、という認識を持つのは結構ですが、それを強く思いすぎるとそれが「自分らしさという檻」(ミスチルにこんな歌詞ありましたね)を作り出して自分を苦しめることになります。ましてや他人から「あいつらしくない」「あいつのくせに」なんて言われたらちょっと嫌ですね。


自分という人間は確かにいる。そして何がしかの同一性を保持している。とはいえ、日々変化をしているしそれゆえに変わることのできる存在である、と私は思うのです。


心も体もです。


変われると思うから、良く変わろうと思って修行をするわけです。


絶賛「食養」のオーバーワークで循環が追いついてませんが泣




​循環と生涯

人間、無力な赤子からスタートします。


「循環」は入りと出が常に一致してるのではなく、幼少期は入りが勝ち、いわゆる『成長』をしていきます。


一定時期になれば今度は出が勝ち、最終的にはやはり無力になり死んでいきます。これを『老化』と言いますが、成長も老化も本質は「循環」だと私は考えます。


排出、すなわち「自分」から何かを「手放す」ことを日々繰り返しますし、高齢になれば手放すものが徐々に増える。


できてたものができなくなるし、自分がどんどんなくなっていく。それでも最後まで自分であり、「自分であること」を投げ出すことはできない。エモい!


世の中には亡くなるまで強くなり続ける達人がいらっしゃるようですが、多くの場合は筋力も落ちますし反射神経だって衰えます。普通は弱くなる。自分の持ってた「強さ」を手放す日が来る。


冒頭述べたように「循環」が修行であるとするなら「排泄」は「手放す修行」と言えるのかもしれません。


自分が得てきた「自分」を徐々に手放していく。「己こそ己のよるべ」と金剛禅では言いますが、その己が無くなっていく。


「俺は強いから頼れる!」と「強さ」のみをよるべたる根拠に据えてた人はその強さを手放すときにどう思うのだろうか。

「俺は金持ちだから大丈夫」と経済力によるべの根拠を見出してた場合は?


まずは循環。成長期にしっかりと蓄え、自信を持つことは大切です。しかしいつか手放すもの、言い方を変えれば「あらゆる能力は一時お借りしてるだけのもの」と捉えた方が気持ちも楽なのかもとさえ思います。


今持ってる力で、何を成していくべきか。人を傷つけて自分の利益を上げるのでなく、多少なりとも人のために力を使えるような人間でありたいし、そういう人を1人でも多く作るのが金剛禅の役割なのかな、と思います。


自己確立・自他共楽

こんなことを思いながら、どんな自分であろうとし、手放していくのか。その軌跡の中で何を残せるのかを考えると必然的に自己のみでは完結し得ないのではないかと思うように私はなりました。


しっかりと成長し、自己確立はまずは必要です。


ただ、成長するには外部から取り入れます。食事だけではありません。技術だって誰かから学んだり、誰かに技を掛けることで成長します。他者が必要です。


自分が衰えていくことを理解するならば、衰えたのちに、それこそ他者の助けが必要になる。そう思えば今人を助けられる力を持ってる時に助けあうべきだと思うのではないかなと。


スタートもゴールもまちまちな、あらゆる生きてる人の人生が重なり合って世の中が成り立っています。これはいつの時代も変わらぬことです。


そんな中でどう生きるかを考えて修行するのもまた乙ですねっと。


長くなりすぎました。それでは与太話はこの辺で。




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