松戸上本郷道院のブログへようこそ!


普段少林寺拳法のことばかり考えてる私がつらつらと考えた内容を適当に吐露したい。今回はそんなブログです。


親子で少林寺拳法を学ぶこと

親子で少林寺拳法を学ぶことの価値は、以前にお話ししました。







父子で一緒に学ぶとした場合、子どもが小さい時は当然に父親が力もスピードも技も強い状態ですよね。拳法以前に体格差もあるので当然のことです。




息子の成長と自信の老化

当然、という言葉を引っ張るのであれば、いつか子どもが自分を追い越していくのもまた当然のことです。


親子で少林寺拳法をすることで、その過程の解像度が上がると考えます。


中学や高校で『スピードではもうあいつに勝てないな』となるのでしょうし、大学まで来ると『パワーでも勝てないな』となるのでしょう。技だってずっと勝ち続けられる人は稀なのではないかと思います。


子どもサイドから見ると、最初は全てにおいて圧倒していた偉大な父親から、スピードでは自分が上回った時には「初めて父親に勝てた!」と舞い上がるのでしょうが、力でも、技術でも追いつきあるいは追い越せる目処が見えてくることで、喜び以外の感情も芽生えてくるのではないでしょうか。


これが、等身大の自分を親子で共有できる、ということかと思います。



全てにおいて追い抜いた時

これらの過程の行き着く先は、なんなのだろうかと最近考えてました。


「もう何をやっても息子には負けてしまう年老いた父親」と「父親を圧倒し、父を歯牙にも掛けない息子」が残るのでしょうか。


スピードで、力で、技術で、学科の知識で、これら「比較できうるもの」全てで負けた時、子が父から学ぶものはもう何も残らないのでしょうか?


少林寺拳法は生涯修行を掲げてますが、その修行の終着点とは、、、



拳法を超えた拳法

私は、それでも子が父から学ぶものは残る、もしくは残るような修行であるべきだと考えます。それは父親が修行の過程で得た人間関係であったり、人生経験であったり、言ってみれば『徳』のようなものなのかと思います。


『拳法を超えた拳法』というものを生涯修行の最終段階として規定していますが、これはまさにこういうものを指すのではないかと考えるわけです。


今自分が持ってるものは、加齢により衰え、相対的優位さは失われていく。特に息子と比べた時に「いずれ敵わなくなる」ものです。


ひとつ、またひとつと、自分の優位性が失われていくその引き算の最後の最後が「単なるゼロ」ではなく何かが残るように、その残ったものの尊さを少しでも高めるように、今この瞬間から自分も相手も地道に大切にしてゆく修行を続けたいものですね。



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