いよいよ
の最後です。「組手主体」ですね。
二人一組で練習する
少林寺拳法では二人一組で修行することを主としています。
「組手」と言っても乱捕がメインというわけではありません。むしろ乱捕はもう少しやったほうがいいんじゃないの?ってレベルでやれてないのが多くの道院の実情です。これはあかんですね。
一人で基本の練習をする、時代錯誤なことを言えば山籠りとかする、そういう修行方法は主ではないということです。
基本の見直しを一人でじっくり行うことは非常に優秀な練習方法ですが。
組手(相対演練)で得られること
まずは技術的要因について述べます。
一人で練習すると、間合いはなかなか練習しにくいものです。もちろん「遠くを蹴る蹴り」「近くを蹴る蹴り」などある程度は出来ますが、相手があればよりやりやすい。
虚実なんてもっとそうです。
相手の体格やスピード、力量が変わればこちらの動きも変わる。時に応じて技を変える、そういうものを学ぶために相対練習は優れていると考えています。
とはいえ正直、こんなことは他武道でもまったく同じようなことはしてます。というか、乱捕とかするのも普通だし、少林寺拳法はむしろ劣後してるのではと思うぐらいです。
私見ですが、次の精神的な理由の方こそ少林寺拳法の特徴かなと思っています。
精神的な理由
二人一組で練習するということは、常に「相手となる人がいる」ということです。当然ですね。
もし、独りよがりに相手を打ちのめしてしまったら、その相手はどうなるでしょうか?もう相手してくれないかもしれません。少林寺拳法を辞めてしまうかも。
また、相手が自分より遥かに上手で、自分の力量が相手の練習にならないレベルでずっと止まってたらどうでしょう?やはり相手に愛想を尽かされてしまうかもしれません。
自分が上達できる練習をするために、まずは相手を伸ばす。相手の修行の邪魔にならないよう自分も頑張って成長する。
この精神性を最初から何度も何度も叩き込まれて修行することこそ意義があると感じています。
合掌礼で向き合うこと
合掌礼は礼式であり構えです。
相手に対する敬意を持って合掌礼で練習を始め、感謝をもって合掌礼で終わります。
相手を倒した際にガッツポーズをして武功を誇示する在り方も世の中にはありますが、少なくとも少林寺拳法を学ぶ上ではそれは許されないものと私は思っています。
憎しみで向かい合ったら、「組手主体」という少林寺拳法の特徴は離れ、いわゆるケンカになるのだと思います。
良き攻者になること
少林寺拳法の修行では、守者に注目が集まりがちです。技を繰り出す人、技を練習する人が守者です。攻者はやられる人。黒子のような位置付けと言うと言い過ぎですが、そのように捉えられる事も少なくない。
大学時代、攻者が退屈だった時期がありました。どうせやられるんだから、とやる気も無くなってたのかと思います。(あかんですね)
攻者がやる気のない、当たらない攻撃をしたら守者だって何もしなくても良いと言うことになります。それどころか受けなくても良いものを受けようとして変な癖までつく。練習すればするほど下手になる。
攻者はしっかりとした攻撃を、場合によっては相手の力量に合わせて加減し、場合によっては全力でするのです。もしかしたら意地悪をしてあげる事がいい時もあります。
全ては相手の成長を思って攻撃をすることが必要です。
相手の成長のために(そのあと反撃されると言うことをわかってて)身を挺して攻撃をしてあげる。ここに自己犠牲の「布施」の観念があります。
金剛禅としての内受突
相手が顔を殴ってきたのに対し、自分はそれを内受で捌き、中段突を返す。
この動きは少林寺拳法以外でもどこでもやってると思います。
技術体系としてはありふれたものですが「そこに相手の成長のために」が揃うことで金剛禅としての内受突になるのかと私は考えてます。
これが、力愛不二に並んで、私が「組手主体こそが一番の特徴だ」と思う理由です(これは私見です)
門下生の皆も「相手のことを思いつつ練習してたらいつの間にか強くなってた」と言える道院を目指しましょう!みんなの力が必要です!

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