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の1つ目『拳禅一如』についてです。


拳とは、禅とは

拳禅一如は「拳と禅は一如である」ということを指した熟語です。


宮本武蔵の言った「剣禅一如」という言葉がありますが、それとは似て非なるものです。


「拳」とは「肉体」を表し、「禅」とは「精神」を表しています。すなわち、体と心は切り離せない(一つのものである)という物心一元論の見方をしています。


一如とは

一如というと「一つの如し」と書かれてますので「元々は別々のものを同じものとして扱う」という意味に思われがちですが、そうではなく「切り離せない一つのもの」という意味です。


なんじゃそりゃ、と思うかもしれませんが例えば「紙の裏と表を分離しろ」という無茶を言われたとして、頑張って表面と裏面を切り離してうっすい紙2枚に分けたとしましょう。そうしたら、表面には新たな裏面が、裏面には新たな表面が出来上がっており、結局は分離できてない、という例えが私の知る限りよく使われているように思います。


他にもあります。右や左の概念なんかもそうですよね。


「心と体は切り離せない」と主張してるわけです。


心と体が切り離せない、とは

え、でも体は物質だし、心は物質じゃ無いし、、、同じでは無いよね、と普通思いますよね。私もそう思います。


病気に罹ったり怪我をすると心も沈んでくる。

「火事場のクソ力」というように、心が昂ると普段ではあり得ない力を発揮しうる。人間はそう言ったことがあるという主張です。


「心と体は完全に同じものだ」という強い主張でなく「全くの別物ではあり得ない。相互に影響しあってるんだ」という主張と私は理解してます。


物心一元論の積極的肯定と言うよりは、物心二元論の否定としての「一如」と言うところでしょうか。


拳禅一如の観点に立つ修行法

人間とは心と体が相互に影響を及ぼしうる存在である、と思うのならば、その人間を高めるための修行としては心も体もどちらも同時に鍛えることが必要となります。


体ばかりをいじめぬく荒行や、精神論ばかりの修行はこの観点から少林寺拳法では求めてないと言うことになります。(もちろんそれらの良さもあります)


「拳禅一如は修行の在り方について定めた特徴だ」とする意見も主流かと思いますがそれはこういう流れからの帰結と捉えています。


禅拳一如ではダメ?

次の力愛不二でも同様のことが言えますが、開祖は「拳禅一如・力愛不二だ!禅拳一如・愛力不ニでは無いぞ!」と言っていました。


まずは体、まずは力、一如・不ニが記号で言えば「=」だとしても、順序まで逆にしてはいけないということです。


お題目ばかり言ってないで行動しろということかと理解しています。


※公式の見解ではありません




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