今回は普段以上に個人的感想を含んでいますので、本部公式見解ではない点、くれぐれもお含み置きください。


外部の方にもわかるように書いたつもりですが、なにぶん内容がマニアですので、門下生や、もう少し広く同門の後進の理解の一助になれば、というのが生意気ながらに今回の投稿の一番の目的です。


少林寺拳法は宗教である

さっそくですが、これは少し偽りのある文章です。


「少林寺拳法」はあくまで、特定武道の名称です。


少林寺拳法を修行のツールとして扱っている宗教団体(金剛禅)があり、概ね同一視できるため、世間では「少林寺拳法は宗教だ」と言われますが、厳密には別で、とはいえそのように認識しても概ね問題ないという、初見ではよくわからん状況となっています。



敢えて無理な例えをするなら、バスケットボールを通じて球体の神秘さを信仰する宗教があった場合、バスケットボール自体には宗教性がなく、バスケットボールを使って信仰を深める宗教団体がある、という話です。この宗教団体以外にも多くのバスケットボールを楽しむ団体があるので「バスケットボール=宗教」とはならない、ということです。


金剛禅はどういう宗教か

先述の通り、少林寺拳法で修行する宗教であり、また、『少林寺拳法ってそもそも何?』突然ですが、お説教されるのって好きですか?どんなに自分のタメになる話でも、お説教はだいたいみんな嫌いですよね。でも、子育てにしても「よくなって欲しい!変わって…リンクameblo.jp


で書いたように「人づくりによる国づくり」を目指す団体です。


人づくりのために、強さと優しさを持つ人間を育てる方法が必要であり、その方法として少林寺拳法を採用しています。



いやいや、ちょっと待って。宗教なんだから信仰の対象ってものがあるでしょ?今の話は「目的」であって信仰とは違うのでは。


と思った方は鋭いです。では、信仰の対象についてお話させていただきましょう。



金剛禅の信仰の対象

金剛禅の信仰の対象は『ダーマ(Dharma)』という概念で、「真理」とか「法則」とかいう意味を持つものです。


具体的な「神」とかそういう類のものではなく「法則」を信じるわけです。


宗教法人法の制約(と、聞いてますが)のために本尊として達磨大師を祀ってますが、別にそこに信仰はなく、あくまで法則を信じてます。



科学もある意味宗教

私は一応大学で数学を専攻していましたので、思考としては科学者的なものを持っていると思っています。

在学中の実態は「体育学部少林寺拳法学科」みたいな感じでしたが😅


皆さんに聞きたいのですが「1 + 1 = 2」って何故ですか?説明できますか?説明できないのであれば、そんな疑わしいものを信用できますか?・・・まぁ信じてはいますよね。信じないと始まらないし、また実生活とも何ら矛盾もないですし。


科学は主に数学によって裏付けられていますが、その数学ですら根本の根本は「当然すぎること」を“信じて”数学という体系が組まれています。(この「当然すぎること」を「公理」と言います)


科学だって、その根底は何もわかってないんです。でもそれを信じてやってるわけです。


そう考えるとエセ科学を信じる人に比べて、科学に立脚しエセをエセと断じる科学者こそ、真に信心深いと言えるのではないかと思います。そして彼らの信心は新説が出てきたらそちらに移る。それで良いのだと思います。


当然すぎて疑いようのないもの、疑っていたら話が進まないもの、その存在を認めざるを得ないもの(物理における重力とかがそうですが)、そういった根源を、私たちは法(ダーマ)と呼んで信じてます。(信仰、というより信じてます、が私にとっては正しいです)



科学と矛盾しない宗教、金剛禅

金剛禅は非常に科学的な宗教だと私は感じています。


ダーマはあくまで「説明のつかない、でも、あると認めざるを得ない根源的なもの」ですので、説明がついてしまえばそれはダーマはなくなります。その代わり、説明するために用意された新たな何かがダーマになります。


少し例を見ましょう。


電卓で「6÷3=2」という結果だけ知っていて、その理由を説明できない人にとって、この「6÷3=2」はダーマなのかも知れません。


「3×2=6」“だから” 「6÷3=2」なんだよ


と説明できた場合、この人にとっては3×2=6が新たなダーマなのかも知れません。では「3+3=6だから3×2=6なんだよ」と説明できる人にとっては?


これらを繰り返すと「1+1=2」に行きつき、もっと先に行ったり、『「1+1=2」も条件次第で正しくない』となったりします。


でも、ここまで来ると「そんなことはもう説明いらんよ。それが説明できて何になるのさ」と、学生時代散々数学科の学生として言われたような話になってきます。


そうなんです。実生活においては「そんなもの当然すぎてどうでもいい」のです。でも、この「1+1=2」は誰も疑ってないし、もしより良い説明ができるなら、そっちを信用してそっちに移ればいいのです。


金剛禅にとっての「1+1=2」は、いわゆる「科学」「因果関係の存在(これも科学かもですが)」「生命が“ある”と言う事実」「人には“良心”がある」ということなどです。ここを否定してくる人は、多分実生活かなり困難なのでは、と思います。逆に言えば、その程度の内容なのです。


アメリカでは宗教上の問題で進化論は問題があるという話を聞きます。金剛禅ではそのようなことは起こらない、という意味で非常に科学的、言い方を変えると宗教らしくない宗教なのかも知れません。


何故あなたは練習するの?

もう少し話を拳法に寄せましょう。


「強さと優しさを持つために」も、もちろん練習目的なんですが、ここでお話したいのはもっとそれ以前の話です。


「練習したら上手くなる・強くなる」これもまた当然のことですが、でもよくよく考えると不思議です。なんでずっと繰り返すと上手くなるんだろう。バスケットボールが弾み続けることで、(ボール自体の)弾み方が上達することはありません。ドリブルしてる人間のドリブルテクニックは上がりますが。


どちらも同じく繰り返してるのに、何故でしょう?理由はわからないけど確かに上達する。これもまたダーマです。


人間は(ボールと違って)成長できる余地がある。この当然の事実を、才能が開花する様子になぞらえて「人間は可能性の種子である」と金剛禅では表現します。


先程の科学の話で言う、運動科学や脳科学、神経科学を信じてると言えばそれまでですが、私たちは自分が「練習すれば上手くなると信じているから」練習をするわけです。


それがすなわち自分の可能性を信じ、つまりは他人の可能性を信ずることに通ずるわけです。


大袈裟に言えば、自分を変えるために何かに打ち込んでる人は、須くダーマを信じてると言えます。


少林寺拳法と金剛禅

自分の成長を信じて頑張ってくれること、仲間と協力して協調性(優しさ)を養ってくれること(これも成長)、それ自体がダーマを信じてる行動で、もしかしたら少林寺拳法に限らず他の武道・スポーツでも同様の話です。


であれば「何でもかんでもダーマ信仰って言うなら、宗教性ってなんなの?」となるのかも知れません。


答えは意外とシンプルで「人の心の在り様に訴えかけるから宗教なのだ」と言うことに(私の中では)尽きます。


例えば慈善活動団体も、慈善活動を通じて「優しい心の持ち主」は育つのだと思います。ただ「活動」に重きを置くのか「慈善活動を進んで行う心を持った人間の育成」に重きを置くのかで組織の在り方は変わってきます。


私たちは、強さ・優しさ(良心)は鍛えれば育つものだと信じて、自分も他人も共に鍛えようという団体です。


長々と書いてしまいましたが、昔の私の様に「宗教」というワードを聞いただけで毛嫌いするのではなく、どう言うものなのかを具体的に知り(近づいてはいけない団体もありますが(^_^;))、みんなで前向きに頑張っていきたいですね。





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