我孫子道院での普段の稽古は、
おおよそ次のように流れていきます
・定時に集合
①作務(道場の掃除 自分の心も磨く)
②準備運動・ストレッチ
③鎮魂行(座禅・調息法・精神統一)
④基本修錬
⑤運歩法、ミットを使った突き・蹴りなどの練習、受身
⑥学科、法話
⑦術科・法形演練(それぞれの資格にあった技法を修錬する)
⑧単独演武等
⑨各種連絡、作務、解散
このうち、④の「基本修練」は
開足立ちでの、突き・蹴りなどの攻技と同じく開足立ちからの防技で、ほとんど毎回変わらない
先日、ある拳士(少年部)から
「先生、基本修練って、白帯から黒帯までみんな一緒にやりますよね
基本が大事なのはわかるんですが、何年も何年も、毎回毎回代わり映えがしないのは、どうなんでしょう???」
といわれてしまいました
教科書的に答えるのなら、少林寺拳法教範にも書かれている通り、
「基本形は、先人の到達した妙技の形にあらわれたものである
先人の失敗を繰り返さず、先覚者の到達した妙境にに速く達するためには、なによりも先に基本形に熟達することが肝要である」
したがって、「守・破・離」の「守」の段階の者が、基本のあり方について四の五の言うのは百万年と七ヶ月早い 喝!
と言い放ってもよかったのかもしれない
あるいは、
「型があるから型破り、型が無ければ形無し」という名言を引用して、「あなたは型が身についたといえるほど、基本をやり込んでいるんですか?」と問い返すこともできたでしょう
どちらも大事なんだけど、
このときワタシは「基本は定点観測なんだよ」
と答えてみた
基本は毎回ほぼ同じことを繰り返してやる
だからこそ、わずかな違いに気づくことができるんだよ、と
同じ動きをやっているからこそ、
「お、今日は身体のキレがいいな」
「なんだか今日は身体が重い」
「いつもより脱力が効いている」
「背中と股関節が固いな」
「肋骨が緩んで呼吸が通りやすい」
「肚から声が出ているな~」
「ん、前より拳が伸びるぞ」
「視線が高くなった気がする」
といった、自分自身についての気づきが得られるところに意味があるんだと
武道の修行は、他人と比較する必要はない
比べていいのは、過去の自分自身だけ
つねに自分自身を見つめ、自分の変化に気づく機会が、基本の本質で、
それも同じ基本を繰り返す大きな理由のひとつではないでしょうか?
また、修行そのものがそうであるように、やり込んでいくうちに
「あ、このためにやっていたんだ」と段階的に、何度も体得体解するのも大事なこと
毎回、そうした気づきのある基本をやりたいものです
本日の「身体の知能指数」 (PQ=physical quotient) 『110』