毎年恒例の達磨祭。
今年は、我孫子道院に、野田、流山、柏の近隣の道院が集まって、地域合同で10月1日に執り行いました。
達磨大師は、いまからおよそ1500年前に、
インドから中国河南省の嵩山少林寺に渡り、
釈尊の正しい教えと、その行法(座禅行・易筋行=拳法)を
伝えたという人物で、金剛禅総本山少林寺の本尊。
達磨祭は、その祖師達磨大師の命日(10月5日)の前後に、
達磨大師を礼拝し、その遺徳を偲んで法要を行うと共に、
拳士一人ひとりがいっそう拳禅一如の修行に精進し、
「達磨の子」として七転び八起き、不撓不屈の精神と
本当の強さとやさしさを身につけることを互いに誓い合う行事です。
達磨大師の教えといえば、
「不立文字」「教外別伝」「直指人心」「見性成仏」が有名。
今年の達磨祭で、ワタシがとくに強調したのは、
「不立文字」と「教外別伝」
つまり、大事なことは、写真や動画、絵でも文章でも伝わらないということ。
今日、情報技術があまりにも発達し、様々な情報が、手軽に、瞬時に、ほとんど無料で入手できるようになった。
それはそれで便利で素晴らしいことなのだが、本当に大事なこと、肝心なことというのは、
「面授面受」、つまり直接手と手を取り合って、フェイスtoフェイス、口伝で伝えるしか方法がないということ。
こんな現代だからこそ、組手主体の少林寺拳法の教えと修行に、価値があることを、伝えたかったのです。
また、達磨といえば、不撓不屈、七転び八起き。
というわけで、今年も七転び八起きの達磨精神を体得体解するために、
達磨になりきって、七回転がり、八回起き上がる「ダルマ受身」をみんなで実践。
ゴロゴロ、ゴロゴロ転がってみると……。
転がっている間は、転がることに“没頭”し、雑念がどこかに消えてしまいます。
この瞬間は、無念無想。
禅の修行僧が求めてやまぬ、無我の境地に達するわけです。
頭でっかちの現代人には、たとえわずかな時間でも、『没頭』し、脳を休ませる時間が、重要。
無念無想は、過酷な修行を積んだ高僧しかたどり着けない境地ではなく、誰もが(一瞬なら)体現できるものであり、決して、手が届かないものではない。
誰にでも可能性があることに気づける、つまり「見性成仏」。
精神の深いところにアプローチするには、身体を使うのが近道であるという達磨の教えは、最新の脳科学や身体心理学でも証明されている。
達磨大師は、人間完成の行において、拳と禅は離れべからざる修行として、拳禅二道ともに禅門の主行と位置付けられた。
そうした理想的な、霊肉一如の修行法、完全なる身心一如の練成法である少林寺拳法を学んでいる拳士は、現代における「達磨の子」。
ダルマ受身で、一度でも起き上がれた人は、「自分には転んでも起き上がるだけの力がある」と信じて、より強く、逞しくさらに達磨に近づくことができるよう、精進を重ねていきましょう。
本日の「身体の知能指数」 (PQ=physical quotient) 『108』