生理学に基づくセルフケアと対人支援手法、コミュニティ・レジリエンシー・モデル (コレモ)がウェブで学べるようになりましたよ~!

コレモのサイト 

今まで二日間の講習会で学んでいた内容が、全て動画とライブのオンラインセミナーで学べるようになりました。
 

基本スキルは無料動画で見られます。

2018年にコレモと出会って、私も使っています。

コレモで気に入っているところは、必要なのが自分の体の感覚に耳をすます意識だけ、というところ。
 

いつでもどこでもできるし、リソースは「自分」だけだからお金もかかりません。
 

「不快には深入りしない」が合言葉で、使うときも、学ぶときも、心地よさが基本です。

かっとする、いらいらする、どよ~んとする、緊張で頭が真っ白、漠然とした不安が続く…こんな場面で思い出して使ってみたり、毎日の体調や気分のチェックに使ったりしています。
 

使い続けていると、黄色信号が出始めたときに気付いて対処ができるし、たとえ超ネガティブな気持ちになったとしても、そこから戻れる自信というか安心感もわいてきます。

 

使うほどに「うん、大丈夫」とまた思えるようになるまでの時間が、短くなっていくようです。

自信や安心感は、脳神経科学や生理学の裏付けがあるからかも。

再び「うん、大丈夫」と思えるのが、レジリエンス
 

「うん、大丈夫」な状態でいられる幅が「レジリエンス・ゾーン」

使っていくと、この「うん、大丈夫」でいられる幅が広がって、そこから飛び出してしまう頻度や時間が少なく短くなっているなと思えます。

これが2年半、自分で使ってみた今のところの実感です。

家族や同僚、身近な人と使い合うことができるから「コミュニティ」のレジリエンシーモデルなんですって。
 

ご興味を持たれた方、ぜひ一度覗いてみてください。

コミュニティ・レジリエンシー・モデル
 

②以来、ちょっと間があいてしまいましたが…
 

引き続き、イギリスのアートセラピスト
エマ・キャメロンさんのブログを参考に
トラウマケアの昔と今の違いについて
ご紹介します。

https://emmacameron.com/trauma/trauma-therapy-has-changed-heres-how/

違いその8

昔:アタッチメントのレンズなし
今:トラウマを、アタッチメントのレンズを通してみる

1950年にアタッチメント理論が登場し、広く知られていたにもかかわらず、トラウマとの関係については長く言及されてきませんでした。

現在は、不安定なアタッチメントが、トラウマ体験となりやすかったり、脆弱性を高めてしまったりすることが認知され、治療やケアにおいて、一部の療法を除いて、アタッチメントを基礎においた支援がなされています。

違いその9

昔:古い世界
今:今の私と以前のわたし

昔のセラピーでは、トラウマ体験は辛く屈辱的で、圧倒されるような負の感情がうずまく「過去の世界」として捉えられていました。

 

トラウマ治療は暗くて気が滅入る抑うつ的なもので、過去を掘り下げることでクライエントの苦しさが蘇ってしまったとしても、クライエントに支援がなされないときがありました。

今は、クライエントとセラピストが一緒に、クライエントの興味や関心に沿い、感情や身体の感覚を大切に扱いながら進められます。過去の傷は依然としてあるものの、過去も、今とつながる過去として、クライエントの過去の私と今の私とを、セラピストと一緒に眺めます。 

今日はここまで。

映画「プリズン・サークル」を

ご覧になりましたか?

 

「島根あさひ社会復帰促進センター」という

官民協働の新しい刑務所を取材した

ドキュメンタリー映画です。

 

罪、償い、罰、

更正って何なのかを

考えさせてくれるのですが

 

司法の枠を超え

わたしに

わたしたちのいる

様々な場に

必要なものは何なのかについて

考えさせてくれる映画だと

思います。

 

とっても

揺さぶられる映画。

 

映画公式サイト:

プリズン・サークル

 

感動した映画が

受賞したという知らせを聞くと

ほんとうに嬉しい。

 

「プリズンサークル」

令和2年度文化庁映画賞(文化記録映画部門・映画功労部門)

 

文化庁 受賞の発表

 

嬉しすぎて

映画の宣伝まで

やっちゃうぞ。

 

===

 

同じような痛みを持つ人たちと

一緒だから

ひとりでは到底

向き合えなかった感情と

向き合える。

 

気付くことも

気付こうとすることも

気付かせてくれる出会いも

ないまま

代わりのものを求め

苦しんで

苦しめて

苦しめば苦しむほど

さらに人を苦しめて

ここにいる。

 

ここにきてはじめて

受け止めてくれる誰かと

自分も出会ったことの

なかった自分と

自分の感情と

出会う。

 

犯した過ち

あやめてしまった人

裏切り傷つけてしまった人への思い

 

あやめられた子ども時代の

自分への思い

 

欲しかったもの

蓋をしていたもの

分かってほしかったこと

 

ことばにならなかったことが

ことばを得

存在を得ていく

 

ことばを得るということが

受け止められるということが

それがどんなに大きなことか

 

画面を通して見ているだけの

わたしも

あふれるような何かを

その場でいっしょに

受け取っているような

気持ちになるのです。

 

それは

突き刺さるように

痛いものでも

苦しいものでも

冷たいものでも

なく

 

あたたかいものが

ゆっくり少しづつ

沁みていくような

潤っていくような

緩められていくような

感覚です。

 

この感覚を生み出しているのは

人と人との対話の場

サークルです。

 

「プリズン・サークル」

 

そこにいるみんなで

丸く輪になって

誰が上でも誰が下でもなく

対等なひとりの人として

向き合い

受け止め合う。

 

そこで、一貫して

大事にされていることは

安心して

出てきたものを受け止めあえる

環境であり

その場の人への信頼。

 

こうした対話のコミュニティを

「治療共同体」とか

「回復共同体」

と呼ぶそうです。

 

The Therapeutic Community (TC)

 

大阪大学の藤岡淳子先生は

著書「治療共同体実践ガイド」の中で、

こう表現されています。

 

===

一人ひとりを大切にしながらも

人とのつながり(コミュニティ、

グループ)をつくり

その力を活用して

対人援助の効果を上げる。

治療共同体では、誰かに

治してもらうというよりは

回復の場としての

共同体を創り

他と学び合い、

助け合いながら

自信を回復させ

成長させていく。

良い集団を創ることこそが

一人ひとりを生かすことに

直結する。

===

 

そして、こんな風にも。

 

===

 

刑務所や福祉施設といった施設のなかでは

職員たちも傷を負う。

 

いわゆる代理受傷と呼べるものかも

しれない。

 

受刑者や子どもたちの

傷に触れ、それと同時に

彼らの否定的な言動や攻撃にさらされ

自分には何もできないと

無力感に陥りやすい。

 

このとき、

そこで起きている傷つきという

現象を否認して

彼らは自分たちと違うとして

切り捨てるのか

それとも

自身の傷つきを認め

彼らの傷つきに気づいて

そこからの回復を模索するのかによって

道は分かれるように思える。

===

 

今わたしが歩き出した道は

支援者のための治療や回復

元気の再生産の

お手伝い。

 

まだまだ

何にもできていないけれど

もっともっと勉強して

がんばりたいです。


受賞、本当に

嬉しいなあ。 

「チームで挑まないと、たたかえない。」

この言葉、今夜開催されたBase Camp主催の「泥だらけのオープン・ダイアログ」の中で、ぐっときた言葉です。

まるでスナックにいるかのような体で、誰かの話をその場にいるみんなで聞いて、対話するユニークな催しでした。


お話をして下さったのは、琵琶湖病院でオープンダイアローグを実践している精神科医の村上先生と精神保健福祉士の山中さん。

村上先生の「(患者さんとの対話を)チームみんなで体験するのが大事だった」の言葉を受けて、KAZOCの渡辺さんから飛び出したのが、前述の言葉でした。


これを聞いたとき

そう、そうなんだ!と、胸の奥でチーンと正解のベルがなったような気がしました。

わたしが渇望していたのはそれ。チーム。

支援員なのに、支援できていない自分に、いらつき、がっかりし、罪悪感を持ったり、誰かや何かを責めたくなる気持ちになったり、苦しくて孤独でした。


虐待やネグレクト、DV、いじめ、喪失、貧困、紛争、差別…、痛ましい体験をした人の感情や体験に触れる時、支援者側も圧倒されてしまうことがあります。

大きく揺さぶられていることを、表面に出すことはないし、自分自身で動揺していることに気付いてない場合もあります。

問題って、その人やその家族だけの問題のように見えて、実は、多くの場合、地域や社会や時代という、大きくて深い集合的な問題をはらんでいます。もう「The 理不尽」のオンパレード、みたいな。

チームで挑むということの中には、ダメージをひとりでなく、みんなで受け止めることも含むのだと思います。

むしろそのことに大きな意義がありそうです。


問題解決に向けた対処をみんなでやる、ということとは違いまして、その手前の話になります。

 

その人の悲しみやつらさや孤独や希望、それを知ったことで自分が受ける心へのインパクトを人と分かち合うということなのだと思います。

「〇〇チーム」の人、「〇〇会議」に参加する人だけが、チームメイトというわけではありません。
 

村上先生によれば、それより、もっと、うすく、ゆるいつながりです。

明確な「所属」の証はないのだけれど、何か、感情的につながれているような感覚を持てる人の輪。

多職種連携
チーム医療
チームとしての学校…

チーム、チームと言うけれど、チームと名前がついてればいいというものではないらしいのです。

私は本当はこうありたい、本当はこれは嫌なんです
 

心から湧き上がる自然な思いを受け止め、交換する場
その場にいる人が、チーム

琵琶湖病院の地域ケアユニットは、そんなチームらしいです。

引き続き、イギリスのアートセラピスト、エマ・キャメロンさんのブログより。

トラウマケアの昔と今の違いです。

 

違いその4.

 

昔:トラウマ体験をした「過去のその時」に焦点をあてます

今:「今」に焦点をあてます

 

以前のセラピストは、過去の体験に戻って何が原因だったのかを探り、意識の上に顕在化させようとしました。でも、それはクライエントにとって辛かった時のことや感覚を思い出すこととなり、かえってクライエントを苦しめてしまうことがありました。

 

今、トラウマのことをよく理解したセラピストは、トラウマは言語化がしにくい非陳述記憶に残るものだと理解しています。いつの何が、を詳しく知ろうとするより、トラウマによって身体、脳、神経系がどのように影響を受けているかの方に焦点を当てます。クライエントが望むのは、今楽になることですから。

 

違いその5.

 

昔:ケアの目的は、思い出すこと

今:ケアの目的は、楽になること

 

癒しの鍵は過去の記憶を思い出すことにあると、以前は考えられていました。

 

今、トラウマのことをよく理解したセラピストは、ケアの目的は、過去を思い出すことより、クライエントが楽になることだと認識しています。

 

言語化できる陳述記憶の機能が十分発達する前、まだ幼い頃にトラウマ体験をしてしまうことがよくあります。その場合、思い出すこと自体、困難なのです。

 

違いその6.

 

昔:生き延びた。で、それが何?

今:生き延びた。この道のりを経て私は成長していくだろう。

 

多くの場合、トラウマ体験や体験から受けた傷ばかりに焦点が向き、その大変な体験をなんとか乗り越えてきたことについては、見落とされがちです。

 

トラウマ体験によって受けた悪い影響ばかりを視るのではなく、そんな過酷な体験をしたのにもかかわらず、クライエントが生き延び、また、成長していることに焦点を当てます。その先の人生の成長にも影響していることとして。

 

違いその7.

 

昔:うんうん、もっと話してみてください

今:ちょっと、休みましょうか

 

セラピストはクライエントの話を黙って聞いたり、うなずきや、うんうん…のような最小限の相づちを入れながら聞いています。

 

それはそれで大事なのですが、もし、話の途中でトラウマに触れ、クライエントが感情に押し流されそうになったり、逆に何も感じないような状態になったとき、どうしたらいいでしょうか。

 

これらは神経系の過覚醒または低覚醒のサインで、そのような状態の時は、トラウマに関する話をしても効果はありません。その時に必要なのは、まず神経系を落ち着かせる手助けです。

 

トラウマについて理解しているセラピストは、話を聞きながら注意深く観察して、クライエントの神経系の状態に気を配っています。

 

「今、身体はどんな感じでしょう?」 とか 「ちょっと休みましょうか?」と、細かく訊いてクライエントが自分の感覚に気付くのを助けます。

 

これによって、多少の波はあったとしても、過覚醒や低覚醒になりすぎたり、なって戻れなくなったりすることを避け、クライエントが自分は大丈夫だと思える状態を保つのです。

 

続きはまた後日。

知人がイギリスのアートセラピスト、エマ・キャメロンさんのブログを紹介してくれました。

https://emmacameron.com/trauma/trauma-therapy-has-changed-heres-how/

 

トラウマケアの昔と今。


昔は主流だったトラウマの対応方法が、脳神経科学、生理学の発展とともに変わってきました。有効だと裏付けられたものもあれば、中には、有効性が疑わしいもの、実はやり方によって有害になるかもしれないものなどが示されています。

 

20項目に分けて、違いが分かりやすく説明されていて面白いなと思ったので、ちょっとずつ紹介していきますね。

 

違いその1.

 

昔: 何があったんですか?

今: どんな影響が出ているんでしょう?

 

以前は、傷の原因となった体験について、いつ、どこで、誰と、どんな風に?と事細かく明らかにしようとしていました。

 

今、トラウマインフォームドアプローチを身に付けたセラピストは、 「あなたは、今、あなたに起こったことによって、どんな影響を受けていますか?」と、過去ではなく今に、焦点を当てた問いかけをします。

 

 

違いその2.

 

昔: 症状はいろいろ。病なのだから直さなくてはいけない。

今: 症状には意味がある。

 

昔は、症状は悪いもの、直すべきものと決めてかかっていました。今は決めつけません。

 

実は、症状や問題行為には、クライエントが痛みや苦しみから自分を救うためにしていること(出ているもの)ということがあります。実際は救われるのとは反対の結果になっていたとしても、です。クライエントの身体にとっては、コーピング行為かもしれない、と考えてみるようになっています。

 

 

違いその3.

 

昔: 語ることが癒しになる。

今: 新しい体験を紡いでいこう。

 

昔は、症状を和らげるために、トラウマの原因となった体験を、何度も何度も思い出し明確になるまで話させるという治療がありました。

 

でも、やり方を間違うと、それは一部の患者にとっては症状を悪化させてしまうことになりました。今のセラピストは、ただ話させるのではなく、以前のことを思い出すことが、安心感と結びついた新しい体験として上書きされ、変わっていくことに注意を払います。

 

こうすることで、よりしっかりと安全な、癒しのプロセスの土台が作られていくのです。

 

続きはまた後日。

8月30日に、薬物とアルコール依存のサバイバー、渡邉洋次郎さんと精神科医の松本俊彦先生のWebトークセッションに参加しました。

「下手くそだけどなんとか生きてるねん」の出版を記念した、現代書館さんの催しです。

約90分間、気が付いたら最初から最後までずっとメモをし続けていて、手がだるくなりました。胸に響く、忘れたくないことがいっぱいで。

中でも特に印象に残ったことを二つ紹介しますね。

一つは「底つき」

もう一つは「回復を知らない支援者」

です。

■「底つき」って?

自立支援とか、依存症治療や支援の現場にいると、この言葉よく聞きませんか?

「あの人、まだ底ついていないんだよね。底つくと分かるんだけど…」

使い方が違うと、松本先生は言われます。

「底つき」というのは、当事者が使う言葉であって、支援者が使う言葉じゃない。

罰を与えるような、突き放すような、そんな対応が、底つき体験じゃない。

×・・・もうこりごりだと思う

〇・・・生き方を変えたいと、当事者が心底思う


回復には、いろんな形や道筋があります。右肩上がりの一本道ではなくて、ぐるぐるぐにゃぐにゃした道。気づいたら前より楽に、前より自分が好きになっていた、そんな道。

依存は、やめたり、またやったり、やめたり、またやったりの繰り返し。

支援者がすることは、それら一つ一つが「豊かな失敗」となるように祈りつつ、いい情報や機会に出会えるようにすること。

死を選んでしまわないよう、目の前のできることをすること。

支援者も、一人で抱え込まずに。



■「回復を信じる支援者と回復を知らない支援者」

回復を信じている支援者は、余裕があります。それに楽観的。

死なないでいて欲しいなという心からの気持ちが、当事者にも、なんとなく伝わります。



回復を知らない支援者は、当事者のためであると言いつつ、実は、自分や施設のために当事者をコントロールしようとしている場合が多い。

そして、一人でその当事者をなんとかしようと、支援者が抱え込んでしまいがち。

もしかしたら、回復している人の姿や言葉に、まだ出会っていないのかも。

 


大切な、支援者と当事者との距離感。

その人が飲む飲まないは、その人に任せること。その人が参加する自助グループに任せること。

相手を自分が変えてあげないと、とか、当事者より先回して行動したりして、やりすぎないこと。



トークの中で、トラウマインフォームドケアという言葉も、出てきました。

私のテーマは、支援者の支援。
 

今は、大学院で、支援者が安心して支援に取り組める環境をつくるのに不可欠な概念として「トラウマインフォームドケア」を勉強しています。

この言葉が出たときは、出た出た出た出た~!!!と、心の中で連呼。

質疑応答の時間、トラウマインフォームドケアについて、支援現場で具体的取り組みがあれば教えてください、と出したところ、回答は、まだ日本に紹介されて年月が浅く、十分な具体的事例はないのではないか、これから現場で作っていく段階なのだと思う。ということでした。

 

そして、この一言。

 

「技法ではなく、共に過ごす時間が大事」
 

もう一回、書いちゃう。

 

「技法ではなく、共に過ごす時間が大事」

これを念頭に、いつでもどこでも誰にでも対応ができれば、それがトラウマインフォームドケア、なんでしょうね。

トラウマインフォームドケアって、新しい、小手先のスキルをいくつも使いこなせるということではなく、姿勢そのもの。

いっしょにいる時間を大事にするって、その時間を、お互いにとって、意味のある、質の高いものにするっていうことでしょうか。

 

それって、安心して向き合える人とじゃないと難しいでしょうね。

 

安心してる自分がそこにいないと、相手も、安心できない。意味ある質の高い対話につながらない。

 

私がそうだったのですが、当事者の言葉や態度、生い立ちやその人のしてきた経験に圧倒されたり、傷ついたり、それが自分自身の体験や感情とリンクして、ぐらぐらと揺さぶられることがあります。

ゆらぐ自分は、自分を不安にさせ、巻き込まれる危険から自分を守るため、過剰な反応をとってしまいがち。

例えば、つい、相手を突き放すような態度や言葉をとったり、意識して会わないようにしたり、感情スイッチを切って無反応になったり、相手を貶めるようなことを人に言ったり・・・。

なかなか「質の高い時間」を共有する方向にはいきません。

じゃあ、ゆらぐ自分を、認めたらどうでしょう。

動揺している自分に目を向けて、許してあげる。

 

それに付き合う知恵を持っていたら、どうでしょう。

きっと動揺を、ないものと見て見ないふりしてた時より、「安心してそこにいる」ことができるかも。

ゆらいでいる自分を素直な気持ちで出せる人、支え合える仲間との場があれば、もっと「大丈夫な自分」に出会っていけるでしょうね。

共に過ごす時間が大事

これが、トラウマインフォームドであることの、一丁目一番地。
安心してそこにいられる自分を、自分がいられる環境を、仲間といっしょに作っていきましょう。

本当に、学びの多い時間でした。
この本はおすすめです。

「下手くそやけどなんとか生きてるねん。」
渡邉洋次郎著 現代書館

私たちは、病気の蔓延を防ぐために手を洗うなど、公衆衛生上の問題について知って予防しようとしている。

しかし、トラウマや逆境にさらされるということになると、どうだろう。

私たちの社会は、生まれてきた子供たちを全員高い崖の上から下の危険な急流に投げ込み、医療、精神衛生、社会福祉で、おぼれている子供たちを一人ずつ水中から引きずり上げているかのようだ。

時には、おぼれた子に対し、そもそも水の中に入ってしまったことが悪いんだと非難する。

私たちはいつ上流で働き始めるのだろうか?


私たちのいる集団や社会を、ひとつの生理システムとして見る時、貧困、差別、虐待、いじめ、ハラスメント、抑うつ、自殺…これらが必然的な結果として見えてくる。脆弱なところにしわ寄せがいく。

私たちは、自然災害や事故などの急激な災害には、すぐに対応する。しかし、慢性的な災害には、どうだろう。

慢性的な災害は、ゆっくりと進み、広がり続け、世代から世代へと受け継がれる災害だ。今、私たちはその災害の真っただ中にいる。

しかし、私たちはその脅威に対して防衛手段をとることができない。その理由は三つ。意識的あるいは無意識的に、それを無視することを選択してしまうから、それについて誤った情報を与えられているから、それを避けるための手段や知恵が十分ではないから、だ。


上の文章は、今読んでいる「Destroying Sanctuary」というアメリカの精神科医とソーシャルワーカーの人が書いた本の一部。


子供たちを、

自分たちを、
自分の大切な人たちを、
崖に立たせているものは
何なのか

目を向けよう。

慢性的な災害によって
失ってきたもの、
バラバラにされてきたものを

取り戻そう。

「対処」を超えて、
「真の問題解決」に

向かおう。

上流に向かって、
みんなで動きはじめよう。

そんなことを
叫びたくなりました。

引用 
Sandra L Bloom & Brian Farragher (2011) Destroying Sanctuary - The Crisis in Human Service Delivery Systems, Chapter 11

「トラウマインフォームドケアー
問題行動を捉えなおす援助の視点」の本を
読んだ5人が集まって
勉強会が始まりました。

5人は、対人支援の仕事に
携わっています。

5人それぞれが
本を読んでいるうちに
過去、自分の内や外に感じてきた
いろんな経験や
出会ってきたいろんな人のことを
思い出しました。

今、まさに直面している
難しさを感じるケースや
悩み、辛いことを
思い出しました。

でも、今まで見ていたのと
ちょっと違う見え方で
見えるような気がしています。

昨日、勉強会の2回目が終わって
始まる前に想像していたのとは

ぜんぜん違う展開になってはいるのですが

気付きがてんこもりで

それぞれに、やってよかったなと

思っています。

 

眺め方が変わってくると
問題や苦労という
単なるネガティブな厄介ものだったものの
別の一面が現れてきます。

知らなかった自分を見せてくれる
「鏡」だったり
人とつながる
「綱」だったり

問題は、依然として
まだそこに、そのまま存在して
いるのだけれど
捉え方が変わると
前よりも、落ち着いて
安心して
それに向かえる
自分になっていることに
気付きます。

まだゆらゆらふらふらしてますけど
揺らぎながらでも
そのことに向き合える自分、と言いますか。

これは、ひとつの小さな喜びの体験
でもあります。

見え方が変わるから
だけでなく

誰かといっしょに
眺めることができた
気付くことができた
という新しい体験から来る
喜びです。

トラウマインフォームドケアの
勉強会は新しい知識やスキルを学ぶ
ということに加え

実はそれよりも
大きな効果として

へまをしちゃう自分
ケガしちゃっている自分を
出しても大丈夫な
語れる仲間
支え合える仲間を得る

というメリットが
あるのかもしれません。

5人の小さな学習会は

これからも継続していこう

ということになりました。

月に2回ぐらいのペースで。
 

進め方に決まりはありません。
みんなで進め方を相談して決めます。
 

やってみてしっくりくるやり方です。

あっ
一つだけあったかな。

それは、個別の事例について
じっくり見ていこうとするとき
「リフレクティング」のスタイルでしてみる
ということです。
オープンダイアログとか
当事者研究の良いところを使わせて
もらいながら進んでいます。

読んで、話して、聴いて、反応して
話して、聴いて、反応して…
時々また読んで、話して、聴いて、反応して…

何周も何周もしながら
その捉え方を、いつのまにか自分が
もともと持っていた自然な見方になるぐらい
自分の中に落とし込んでいけるといいなと
思います。

これを読んで下さった方の中で
自分にもそういう小さな勉強会があると
いいなと思われたら
 

やりましょう。
 

2人からでも。

職場の人とできたらいいだろうなと
思うけれど

なかなか難しい場合もあるでしょう。

2人目が見つからなかったら
あと、2人はいるけど

3人目がほしい
ということだったら


僭越ではありますが

私でよければ
そのもう1人にならせてください。

オンラインでできますから。

 

トラウマインフォームドケアの

小さな勉強会は

学びとセルフケアの機能をもつ

小さな安全地帯です。

フィリピンで、人権のために働く
人たちの訃報が続いています。

今年5月、都市貧民の組織化や

支援をする団体「カダマイ」の

リーダー、カルリートさん

先週は、貧農への土地解放や

和平交渉に尽くした

「アナクパウィス」の議長の

ランディさん、

昨日はNGOのリーダーで
医療衛生プログラムを担当

していたザラさん

暗殺の前には、殺害警告が

入ると聞きました。
 

上の3人のもとにも、これまで

いったい何度、そのような

警告が入っていたか。

こんな痛ましい亡くなり方が
あることを

こんな状況がずっと続いている

ことを、

 

当たり前だと思わず
うちのめされず

悼み

祈り

変わると信じて

いたいと思います。


熱狂の下で、高い理想を

掲げるリーダーが一人生まれても

それは

独裁的、強権的な

政治体制の誕生

弾圧や腐敗の始まり


どの文化、どの国家でも
避けられないことなのでしょう。

良い生活
良い会社
良い社会

って何?と

 

考え続けること

対話し続けること
作りつづけようとすることを
 

ずっと訴え続けてきた
三人のことを思いながら

これまでそのために命を落としてきた
数千、数万の

報告すら、されていない

世界中の尊い生き方を

した人たちのことを

思いながら

今日の

私の仕事をしようと
思います。