「虐待」っていうこの言葉の持つ響きの強さが、邪魔になるときがありますよね。

 

そもそも、聞いただけで、つらくなるし

 

できたらニュースも見たくない、聞きたくない。

 

怒りが高じて、手をあげてしまった、言わなくてもいい一言を言ってしまった、やってしまったってことは、誰にもあるだろうし

 

何べんいっても言うことをきかないから、体罰しちゃうことも、あったかもしれない。

 

それ虐待認定されたら、って思ったら、身近な人に言えない、相談できない。

 

あと

 

虐待ってほどじゃないことまで、虐待にくくられてるような気がする、とか

 

虐待とは言えないけど、ほっといたらだめなような気がする、とか

 

虐待にまつわるもやもやってたくさんありません?

 

虐待(かもしれないこと)を、今受けている(かもしれない)子どもたちにとって

 

今思えば虐待(かもって思うこと)を、子どもの時に受けていた大人たちにとっても

 

このことば、聞くたびに、チクン、ズキン、ギクッっとするような感覚があるんじゃないかなって思います。

 

そういうことばにまつわる周辺のもろもろの気持ちで、本当に困っていることが隠されたり、困っている人が相談できないようなことがないように、言葉を変えようと小児精神科医の友田先生がすすめておられるのが、「マルトリ」という言葉。マルトリはマルトリートメントの略です。

 

できたら避けたいふるまいは全部「マルトリートメント」でまるっとくるんじゃいます。

 

マルトリートメントの予防や、「とも育て」を研究し、推奨されている友田先生のお話、こちらで聞けますよ~! 


友田先生「マルトリ予防」と「とも育て」

 

虐待って、抵抗できない弱い立場の人を痛めつけることですよね。

 

これまでの研究では、体への暴力以上に、長期に渡って深刻な影響を与える言葉の暴力のことが報告されています。

 

言葉の暴力が影響を与えるなら、多分、言葉ではない、ふるまいやしぐさといった、直接の暴力行為ではない行為も、影響を与えているんじゃないでしょうかね。

 

虐待がセンセーショナルに報じられ、悪のレッテルが貼られたら、悪役は社会的にぼこぼこにされます。

 

そこまで…と思うぐらいに。

 

悪役にもつらい過去があることはなかなか報じられません。

 

社会的制裁だ!とばかりに、ぼこぼこにしてる方も、実は誰かにぼこぼこにされた過去があるかもしれませんね。

 

マルトリっていうことばで、助かる輪が広がればいいなと思います。
 

「エビデンスをもとにした」という意味の「エビデンスベースト(evidence based)」
 

これに似ている「エビデンスインフォームド(evidence informed)」という言葉を聞くようになりました。

どんな違いがあるのでしょう。

これについて、先日参加した「性教育をめぐる哲学的対話」の中で、大阪府立大学大学院の東優子先生が、教えてくださいました。

「エビデンスインフォームド」は、「実践知」と「エビデンス」の有機的活用が有効だとする立場で使われるのだそうです。

エビデンスの受け止め方や扱い方についての決定権が、エビデンスを受け取る側にある、主体性を尊重されているような柔軟な感じがしませんか。

エビデンスベーストが定着していくことは、とても大事なことだと思います。権力者の無計画な思い付きや、好き嫌いや、私利私欲で、政策などが進められるのは、悲しすぎますから。

でも、あらゆる場面でこれが極端に行き過ぎると、エビデンスが出せるものだけが注目され、エビデンスを出せないものについては、重きを置かれなくなる危険を感じます。

限定的な場面でのエビデンスが、すべてのケースに当てはまるわけでもありませんから、エビデンスベーストだからとそれを押し付けられてしまうと、様々な異なる条件を持つ現場が、かえって混乱してしまうかもしれません。

さらに極端な例ですけれど、エビデンスさえあればOKと、エビデンスの質より、エビデンスという言葉に踊らされてしまうという危険もあります。

ずるをして、エビデンスらしく見えるものを提示すれば、そちらに流されてしまう危険です。それよりもっと価値あるものがあるのに見落としてしまうかもしれません。

エビデンスはないけれど、現場・臨床の人が、経験から大切だ、有効だと感じていることは多々ありますよね。

人に関する科学では、厳格に条件を統制して比較実験するなんて、本当に難しいですし、調査や実験をするための時間や労力をかけられる現場は限られます。

また、結果が何十年もかかってゆっくり現れるもの、他の様々な要因と絡まって効果が明確に示しづらいものもあります。

いとも簡単に都合のいい情報がエビデンスとして出されることの方を、疑ってみる方がいいのかもしれません。

ちょっと話が横道にそれてしまいましたが・・・

「インフォームド」って、耳慣れないし、どういうことなんだろうって思っていたけれど、知ると、この言葉なかなかに味がある言葉です。

このブログのタイトルにもなっている、「トラウマインフォームド」

インフォームドと言えば、これ。これを忘れてはいけません。

トラウマやその影響についての知識を得て、その上で、それをどう扱うかの選択権、主体性は知識を受け取った側にあります。

これまで生きた中で、遭遇した出会いや様々な経験から得た経験値や知恵と、トラウマについての新しい知識を組み合わせて、納得できる判断をしていけばいいってこと、なんですね。

 

さて、冒頭で触れた「エビデンスインフォームド」ですが、これは、「国際セクシュアリティ教育テクニカル・ガイダンス」の副題で「Evidence -informed Approach」として使われています。

 

国際セクシュアリティ教育は、人権をベースにおいた、これからの性教育の指針になる重要な内容が詰まった本。

知識と態度とスキルを、私たちはどう子どもたちに伝えていくか・・・

 

というよりも!私たち大人が、学んで、変わっていくことを恐れずに進む態度とスキルを身につけるのに、大事なことがいっぱい詰まった本らしいですよ。

 

こうした視点のことを、「トラウマインフォームド」と言います。

トラウマインフォームドを、国や州をあげて浸透させようとしているアメリカでは、学校でも「トラウマインフォームドスクール」とか「トラウマセンシティブスクール」というのを掲げて、校長先生が率先して学校全体で取り組んでいるところも増えてきました。

でも、「トラウマ」という言葉には、どこかネガティブで、特殊な人だけのものというイメージがついてまわり、かえって人を遠ざけてしまう面もあるので、最近では、トラウマという言葉を使わず、「安全で支援的な学校」を掲げているそうです。

こちらのパンフレットは、昨日参加したシンポジウム「トラウマが与える影響とは-トラウマインフォームドな社会にむけての発信-」でいただいた資料です。

これいい!と思ったので共有します。

 

 

教育現場を、子どもたちが安心できるし支援されてる感じがすると思える場にするために大事なことが、コンパクトにまとめられています。

子どもがそんな風に感じられるには、それをする大人が安全で支援されてるなあと感じてないと、うわべだけのスローガンというか、嘘くささが伝わってしまいますよね。

このパンフレットでは、先生もまた大事にされなくてはいけない対象なのだということがしっかり書かれているところが、私は好きです。

子どもが育つ場は、学校だけじゃないですよね。家庭も学童も養護施設もフリースクールも、子ども食堂も塾も遊び場も習い事の場も、すべての、子どもがいる場所。

子どもが育つ場に居合わせる大人は、先生だけじゃなく、大人のみんな。

あなたは、安心できて支援されてるなあ、大事にされてるなあって、思えてますか?

自信をもってうなずける人、そうでない人、トラウマインフォームドな場を、自分たち大人のためにも、子どもたちのためにも、作っていきましょうね。


参考:

中村・瀧野・岩切, 2019, 米国マサチューセッツ州におけるトラウマセンシティブスクールの実際, 学校危機とメンタルケア, Vol.11,1-14.
トラウマが与える影響とは-トラウマインフォームドな社会に向けての発信-シンポジウム 配布資料

これって、もしかしてトラウマ・ストレス反応?

 

こうした視点をもって、目の前の問題行動を眺めたり、考えたりすることを、「トラウマインフォームド」といいます。

「皆さんが関わっている人の中に対応に困っている人はいませんか?

 

皆さんは、そういう時、相手に声を荒げたり、 責めたり、なんとなく避けたりしていませんか? 

 

ひょっとすると、そのような人は、自分自身が何らかの悩みを抱えて困っているのかもしれません。

 

もしかしたら その人自身もどうしてそんな振る舞いをしてしまうのか分からないかもしれません。  

 

そのような振る舞いの背景にはトラウマが関わっていることも多いといわれています。  

 

トラウマのことを理解すると、イライラしないで、相手にもっとやさしく接することができるかもしれません。」

 

これは昨日参加したシンポジウム、「トラウマが与える影響とは-トラウマインフォームドな社会に向けての発信-」でもらったパンフレットからの引用です。

 

 

 

シンポジウムでは、たくさんの大事な言葉を受け取ったのですが、中でも、印象に残ったのは、これまで数々の児童虐待の事件を追い、そのルポを書いておられる杉山春さんの言葉です。


「当事者が感じる安全と支援者が感じる安全が違うのが問題。中には支援が関与し始めたことによって虐待が悪化したり、姿を消して連絡がとれなくなったりするケースがある。

 

「支援者の関わり方によって孤立を深めてしまう。私たちがそこに近づいていこうとする力が、まだ乏しいのではないか。」

「当事者が抱える憎しみ、恥ずかしさ、恥辱感をどのように理解していくのか。解消していくのか。」

そして、こんなことも、言われていました。

「お母さんを支えようとしたけれど、お母さんの状態が悪くなって、連絡がとれなくなった。今度は、担当していた保健師の人がまわりの同僚に話せなくなっていった。」

相談することは不安で危険なこと。

 

支援を求め、よく知らない他人が介入したら、もっと辛い思いをするかもしれない。

 

そんな感情や考えが沸き起こってくるのはなぜでしょう。近づいてくるのは、「支援者」のはずなのに。

 

もしかしたら、支援が「安全」ではないのだと、それまでの経験で味わったのかもしれませんよね。

 

何等かの過去の体験から、ストレスやトラウマ反応、トラウマの再現が起きていたのかもしれません。

 

当事者も、支援者も。

多くの人には、「トラウマインフォームド」は、馴染みがない言葉だと思います。

 

でも、「トラウマインフォームド」という言葉で呼ばれてなくても、昔からあっただろうし、今もそうしているという人は、少なからずいらっしゃいます。そういう方々は、意識することなく、まるでそれがあたりまえのように、実践されているでしょう。

 

今、当たり前のようになされている、その普段のふるまいや言動のその価値に、もっともっと、光が当たればいいなと思います。

海外では、困窮者、ホームレス状態にいる人の支援、青少年の非行、犯罪や薬物依存などからの離脱や再犯予防、被害者の回復支援、自殺や自傷の予防など、様々な福祉、司法、医療分野で、「トラウマインフォームド」が、広がりを見せています。

そして、その重要性や実践の効果が、次々と数字で示されてきています。
 

トラウマインフォームドというワードで検索すれば、論文数はもう数千規模です。

 

日本でも、こうした取り組みが紹介され、公的な制度や予算の充当の仕方が変わっていくといいなと思います。

 

 

参考
Olafson et al,. 2018, Implementing Trauma and Grief Component Therapy for Adolescents and Think Trauma for Traumatized Youth in Secure Juvenile Justice Settings, JOURNAL OF INTERPERSONAL VIOLENCE, Vol.33, 2537-2557.

Chung et al.,2009, Changes in Treatment Content of Services During Trauma-informed Integrated Services for Women with Co-occurring Disorders, COMMUNITY MENTAL HEALTH JOURNAL, Vol.45, 375-384.

Atkinson et al.,2018 The impact of strengthening mental health services to prevent suicidal behaviou, AUSTRALIAN AND NEW ZEALAND JOURNAL OF PSYCHIATRY, Vol.53, 642-650.

トラウマが与える影響とは-トラウマインフォームドな社会に向けての発信-シンポジウム 配布資料

相談するって、敷居が高いですか?

今日のブログは、相談するかどうか迷っている人のヒントになったらいいなと思いながら書きます。

私は、自分に合う信頼できる心理士の先生に出会って、「相談」とか「カウンセラー」のイメージが随分変わりました。

相談の効果を自分自身で実感できたこと、それが変化の一番の理由ですが、自分でも心理や精神保健の理論や研究に触れるようになったことで、迷っているなら積極的に勧めたいと思うようになりました。


今では、何も深刻な症状や障害でなくても、不調があって、何かおかしいな、困ったな…と感じる程度でも(むしろそのような時こそ!)相談してみる方がいいなと思っています。
 

もちろん、気軽に相談できる友だちや家族がいれば、とてもいいことだと思います。
 

でも、中には、友達や家族には言えない、言いたくない、どう言ったらいいのか言葉がみつからない・・・
 

あと、それらが原因・・・なんて時もありますよね。

 

職場でも、同僚や上司に相談って言えたらいいけれど、言えないとき、下手にしゃべったら、余計ややこしくなったりするかもという心配もありますよね。

ただ、外でカウンセラーを探すと言っても、うーん・・・。

以前、私の「カウンセラー」に対するイメージは、悩みを言ってそれに対して、これこれこういうことをするといいですよと助言をくれる人。

 

その助言が自分に合わなかったり、的はずれだったりするかもしれないから、相談が解消されるかどうかは運次第で、なかなか自分で探して相談しようなんて思えませんでした。占い師を探すみたいに考えてました。

でも、カウンセラーを探すコツが分かれば、「的はずれ」は減らせます。

今、私にはいいカウンセラーについてのはっきりとしたイメージがあります。

 

「理論や技術をベースに、自分が自分でいることを支えてくれる、安心できるガイド」です。

 

あとは、人柄や雰囲気が自分と合うかどうかの相性も大事ということ。

悩みや不調の原因が分からない時って、誰でも不安になります。

心理的なものでは、知りたい気持ちと、向き合うことの怖さ、恥ずかしさ、プライド諸々も出てきます。

 

それが、自分のことであっても、身内のことであっても。

センシティブなことほど話すのは勇気がいるし、話さずに留めよう、自分だけの力でなんとかしなくちゃと思う気持ちの方が強く出てしまいます。

でも、もし困っていること、悩んでいることを、無理に全部話さずとも、自分が安全と思える範囲の中で一緒に探索してくれて、回復に向かう道を照らし、見えやすくして、どうしたいかを自分に選択させてくれて、その道に付き添ってくれる人がいたら、どうですか。

その人の中にある力を信じ、回復を信じ、いっしょに歩いてくれる、信頼できるガイドです。
 

そんな心強いガイドが、悩んでる人や、苦しんでいる人のそばで苦しんでいる人に、見つかるといいなと思います。

そうそう、必ずしも経験年数が長いカウンセラーが、いいカウンセラーであるとは限らない、という研究結果もあるそうですよ!
こちらのサイトもガイド探しに役立ちそう。面白いです。

心理士トーク

他の道でもそうですが、学び続ける探求心や謙虚さがカウンセラーにも当てはまるのですね。

 

支援職には、3つのツールと、心の居場所があるといいなと思う。

ツールといっても目に見える道具じゃないし、居場所といっても場所じゃない。

一つめのツールは、片方にトラウマ、もう片方にレジリエンスが見える心のメガネ。

二つ目は、やわらかいけど誰にも侵害されない境界線のベール。

三つ目は、いつでもどこでもすぐ取り出せるしすぐできる、心のお守り&セルフケア。

居場所は、時間。

 

自分の中から自然に出てくる、正直で飾らない気持ちを出しても大丈夫な人との、時間。

現場という大海原に船出するときは、ライフジャケットを着るように、これらを携えていこう。
 

もしかしたら、心も体もモラル面でも、いろんな面で安心がおびやかされている毎日に、役立つかもしれない。


先人の研究の知恵が詰まった、ライフジャケット。

 

今年もよろしくお願いします。



 

「被害者も、加害者も、

うちの大切な生徒。

どうしたらいいのでしょうか・・・」

 

先生のSOS。

 

性の問題にはいろんなことが

隠れていますよね。

 

微妙なことだし、うまく

自分には取り扱えないんじゃないか

 

触れるのは、タブーなんじゃないか

 

そんな不安や、自信のなさが

自分の中にもあったりして。

 

起きてしまうと、

その傷は

子どもにも、親御さんにも

関わった先生にも

残る可能性があります。

 

どう対応するかで

回復が変わってきます。

 

大切なことは

 

日頃からの予防(性教育、風通しのいいコミュニケーション)

 

 

早期発見(気付ける感覚、普段との子どもの違いを安心して先生の間や関係者間で伝えあえる関係性)

 

 

早期対応(子どもにも、関係する大人にも、二次被害を生まない対応)

 

 

性の問題への危機対応は、難易度は中から高なのだそうです。

 

今年6月に出されたこの手引きには

起きたときの対応

起きないようにするための予防

どんなことに気をつけたらいいのかが

とても分かりやすく書いてあります。

 

全ての先生に

大人に

 

何でもない時に

事件が起きてないときに

読まれるといいなと思います。

 

被害・加害児童生徒が同じ学校に在籍している場合の危機対応手引き

 

「社会が真実から離れれば離れる程、それを指摘するものは嫌われる」

ジョージ・オーウェル  

・・・


できれば目を背けたいことに

目を向けさせるものを人は嫌う
 

認めがたい事実を見るのは

不快だもの
 

とすれば、無視や攻撃は、

不快を避ける、防衛の形なのかもしれない

 

 

不正、理不尽、不誠実

これらに黙り、これらへの指摘に攻撃する

それは自分を守る術

 

自分が受けてきた

悔しさや哀しみや恥辱への

反応なのかもしれない

 

そうしないと

弱い奴だ

空気の読めない奴だ

と馬鹿にされ

安心していられなかった

 

弱音を言う

正しいことを言う

あるいは

正しいことと理不尽の間で

ぐずぐずと迷って動けずにいる

 

そういう素の人間の姿は

自分をぐらぐらに揺らす

 

厳しく自分を鍛え

乗り越えてきたと思っている

自分の中にある、

弱さ、脆さ、裸の心が

刺激され

落ち着かない

 

無視、攻撃、否認

 

その反応は、

こころを守るためにつけた

鎧なのかもしれない。
 

鎧を外せとは

とても言えない

 

ただ、その鎧が

自分を更に苦しめる

状況を支え

本来の自分を守るべきもの

人間として

自分が本当に必要としているものを

遠ざけていないだろうか

 

鎧を外す場を

関係性を

まずは、ひとつでも

作っていこう

・・・

 

そんなふうに

思うようになりました。

 

自分をあるがまま受け入れ、厳しくしすぎずに労わる、そんな自分との向き合い方をセルフ・コンパッションと言います。


これは仏教をヒントに、アメリカの心理学者、クリスティ-ン・ネフという教授が提唱した概念で、徐々に注目され、これまでに、例えばセルフ・コンパッションと問題やストレスへの対処力、または、困ったときに助けを求める援助要請行動との関係など、興味深い研究が報告されています。


研究結果が示しているのは、セルフ・コンパッションが高いと、自分にあったコーピングをとりやすい、自分一人では解決できないことについて人に助けを求める柔軟な援助要請行動がとりやすい、という傾向です。

 

このセルフ・コンパッションを一言で説明すると、「自分への思いやり」とか「いたわり」となる場合が多いのですが、「自分に甘い」というのとは、ちょっと違うみたい。

セルフ・コンパッションを日本にいち早く紹介し研究されている有光興記先生が、こちらのサイトでとても分かりやすく説明して下さっていますので、ぜひどうぞ。

セルフ・コンパッションと「あるがまま」
日本心理学会 機関紙心理学ワールド87号


あなたは、普段、「がんばれ」、「もっとやれ」って、自分に鞭ばかりふっていませんか?
 

それって、本当にいい成果を出すための最良の方法でしょうか。
 

厳しい目を、自分だけじゃなく、自分の身近な人にまで向けすぎて、関係性がぎすぎすしちゃったりして。

 

良かれと思っているのに…。

 

自分との接し方が変わると、周りの人との関係性の質が変わってくるかもしれませんよウインク

 

 

 

今日の午前中は、目黒の結愛ちゃんの

虐待死事件でお母さんを診察し

一審で意見書を書かれた

白川美也子先生の講演を聴きました。


DV、複雑性PTSD、トラウマの再現…

多重被害化のメカニズムが

とても分かりやすく、説明されていました。


被害者や加害者に関わる、

児童相談所や警察、精神科医など

さまざまな支援者に現れる

トラウマ反応や再現、メディアの

報道姿勢、一般の反応による

更なる被害…すべてが

重層的に影響しています。
 

問題は、やる、やられるの

二者の問だけで生じている

わけではなく、それを越えた

様々な関係者の中や、間で、

連鎖的に、無自覚的に

起きてしまっている「現象」。
 

本気で予防したいなら

本気で子どもたちや、

脆弱さを抱える人の犠牲を

一人でも減らしたいならば

わたしがまずすることは

連鎖や関係の画の中に

自分も入っていること

自分もまた影響を受け

与えている重要な一人で

あることを受け止め

トラウマのメガネを通して

自分や自分の周りを

見渡してみること

そこからなのだと

改めて思いました。


それにしても、

 

一瞬も聞き漏らしたくない

その内容の重要度と同じくらい

先生の言葉のやさしさや

美しさに胸を打たれます。
 

「トラウマインフォームドケア」を

書かれた野坂祐子先生の言葉も

白川美也子先生の言葉も

無駄がなく

根拠を持ち

専門家以外の人にも分かりやすく

そして、

何より言葉自体が美しい。

 

胸に浸透する度合いが

格段に違う気がします。

 

辛い、痛ましい

苦しい事案

苦しい体験した人たちに

直接触れ

それを癒す仕事をする

先生方の中にあるものが

ことばにのって

伝わるのでしょうね。

 

良書たちです。