魚翳ランド

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石野広通 

享保三年五月九日(1718、6月7日)- 寛政十二年五月二十一日(1800、7月12日)

寛政三年(1791)「上水記」

小沢蘆庵

享保八年(1723)- 享和元年(1801)

坂本千春(1790-1861)

海野幸典(1794‐1848)

「蕉雨園集」前波黙軒 文政元年(1818)海野幸典・跋 25歳

17451819 75歳   黙軒74歳の時 歌集刊

 

旗本で歌人であった石野広通は、冷泉為村の高弟であったが、普請奉行であったとき、玉川の上水調査で羽村にやってきた。寛政三年(1791)「上水記」を著している。その折に羽村の坂本家に件の小沢蘆庵筆写冷泉為村歌集をもち残したのではないかという説がある。これはどうもいただけない話だ。石野広通と小沢蘆庵はほぼ同世代で為村入門も三十歳ころになる。蘆庵は安政二年五十一歳のとき為村より破門される。それでこの為村歌集は読むとわかるが蘆庵の冷泉家歌道のまねびをコンパクトにまとめた歌書であり、他家の新人への秘伝の風合いがある。同門の石野が蘆庵から譲渡されるというのは腑に落ちない。またこの歌集の初めの一葉、末の一葉は何か句が書かれてあるが、筆跡からして蘆庵以外のものによる。あきらかに石野ではなくこれは謎ではあるがこれこそ写本伝播の鍵になる。

 

 

冷泉為村-小沢蘆庵-前波黙軒-海野幸典-坂本千春

 

為村歌集の譲渡の系をかく想定してみた。

蘆庵と黙軒はともに京都に住みそこで歌詠みもした。海野は江戸生まれで蘆庵を慕っていたが、蘆庵の没年は海野8歳であり直接歌の指導があったとは思われない。歌は蘆庵の高弟前波黙軒に教えを受けた。海野の初期の消息はあまり知られていない。松江藩に属していて京に住んでいたこともあったのだろうか。前波黙軒の歌集「蕉雨園集」は文政元年(1818)に出て、海野幸典がその跋を載せている。黙軒の没する前年で海野25歳の時である。敬愛する先師の歌集の跋を若干25歳の海野が任されたというのは少なからぬ驚きではあるが、二十歳前後の若い時期から黙軒に師事して歌才を認められていたようだ。

羽村の郷土博物館で発見された小沢蘆庵筆写冷泉為村歌集が蘆庵から前波黙軒へ、黙軒から海野幸典へ譲渡されて伝わったという筋は、「蕉雨園集」の跋を海野が書いたということで、確かな事と思われる。… 最近、「蕉雨園集」二巻の原本の画像をWEB上で閲覧することがあり、たしかに文政元年(1818)海野幸典の跋文を確認できた。…そしてまだ精査中ではあるが、発見された蘆庵筆写為村歌集の初めの一葉にあった「秋の七草初のしをり」「友かへて再びミたり夕桜」の筆跡はやはり海野のものに近く思われる。

 *海野はこのころ滋野姓であった。