井月編「まし水」1862
まし水や河原ながるる花のちり 洛 梅通 ①
元治二年睦月康齋亭興行1865
長閑の巻
長閑さの餘りを水の埃りかな 井月 ②
下駄も草履も交る摘草 康齋
凧の糸しばし柱に持すらん 其祥
…
七日(慶応四年一月)1868
玉埃り払うては摘むなずなかな 新聞「浮世風聞」無名氏 ③
*堤梅通
1797-1864 江戸時代後期の俳人。
寛政9年生まれ。京都の人。紅屋をいとなむ。成田蒼虬(そうきゅう)の門人。元治(げんじ)元年3月12日死去。68歳。名は克昌。通称は俵屋六兵衛。別号に麦慰舎,花の本九世。著作に「舎利風語」「麦慰舎梅通句集」など。
井月編『俳諧三部集』(「越後獅子」1863「家づと集」1864「余波の水くき」1885)の前哨として準備されていた諸家俳句集「まし水」(1862)を、この度「伊那路」編集室のご好意により、読む機会にめぐまれた。巻頭は京の堤梅通で翌文久三年に出た「越後獅子」も同じく梅通が巻頭に載る。
掲出の①②③三様の句のうち、①②は井月がよく読み込み思考されていると思われる。③については京で鳥羽伏見の戦いが開始され、時局の風刺句のごとく大阪の新聞に載ったもの。井月は目を通していなかったかもしれない。
梅通の「まし水」とは、川の増水をいうのであろう。川べりで眺めていれば増水の勢いはよく認められる。上流の方の乱れが川下に及ぶのはやがて大乱になるやも知れぬ。幕末の京ではそういう不安な心理が蟠っていたかもしれない。「花のちり」は「花の散り」「花の塵」と両様にイメージすると、咲き誇る桜も塵のごときで、散る花の花びらがまし水に振りかかるのはまさに塵のごときだ。
「明日ありと思ふ心のあだ桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」 親鸞上人
「散る桜 残る桜も 散る桜」 良寛和尚
幕末に生きて、井月にもいろいろと想念が去来したであろう。
花がよいのは、咲き誇れるからだ。埃りのような誇りもあるだろう。
②は犀川峡での井月句、「まし水」より三年後に詠んでいて「越後獅子」「家づと集」は既に開板、いまだ幕末のさ中、ましてゆくのは危急の存亡になる。時局は長閑さとはほど遠いであろう。にもかかわらず「長閑さの余りを」と詠むのは句会の連衆その土地に対する和やかな挨拶とする。犀川はたいへんな暴れ川の記憶がある(1847年善光寺地震)。「水の埃り」と助辞「の」を入れたり「埃り」の「り」で送ったりは細やかな気遣いが感じられる。「ミズホコリ」とは「ミズオオバコ」のことで沈水性の水草のこと。葉や根は水中にあって、夏から秋にかけ可憐な花を水面に咲かせる。喘息、できもの、やけどなどに効く薬草とも。
幕末は終わってないが、afterまし水の句を井月は犀川峡で詠んだ。チリとホコリは似たようなもので一言では塵埃(ジンアイ)ということだろう。まし水は散り花、長閑さの餘りは水の浮き花になる。
おもしろいのは、新聞に載った③「玉埃り払うては」の句。1868年正月七日の京は戦火のさ中。(というより六日には新政府軍の圧倒的勝利。徳川慶喜は大阪脱出)
「玉埃り」の玉は何であるのか、すこし考えます。戦乱のさ中、新政府軍の銃、大砲が威力を発揮したといいますから、その弾丸のこととも思えます。一方、新政府軍は錦の御旗を掲げて朝廷の権威を示したことから、ギョクと読めば天皇の意になる。この戦火で舞い散った埃が春の摘草にも降り落ちている。その埃は天皇のホコリだ(?)…京を舞台での句作ならafterまし水の正当はこちらであろう。
2015年9月13日からJR中央線高尾-塩山間は輪行で、自転車行路は塩山-甲府、甲府-諏訪、諏訪-伊那-火山峠-駒ヶ根というシミュレーションを何度か重ねて、伊那谷の井月の墓を尋ねた。途中、宿を三泊とって、帰りは、杖突峠からのダウンヒルで茅野から高尾まで一日輪行の予定。この杖突峠からの下り坂は危険なようで、実際、天候悪しを理由に諦めている。青梅自宅から中央線高尾までもそう簡単な道ではなく、もう何度か予行を試みていた。
青梅自宅 N35度46分58秒 E139度14分42秒
武蔵御嶽神社 N35度46分58秒 E139度09分0秒
火山峠 N35度46分50秒 E137度59分18秒
火山峠芭蕉の松 N35度46分40秒 E137度59分14秒
多摩川上流にある青梅の自宅、武蔵御嶽神社、火山峠が横一線でほぼ同緯度になる。
闇き夜も花の明りや西の旅
この句碑が芭蕉の松の隣に置かれているようだった。井月が倒れたのもこの辺り。わが曾祖父ではないかという伊那谷の俳人井月。その井月の終焉の地を尋ねたく自転車の旅を思い立ったのは、もう五年ほど昔になる。
火山峠 芭蕉の松
「きょうは瑞穂の六道山公園までサイクリング。大声を発したくて人のいない所を探したのですがなかなかでした。コロナはそろそろ下火かな。・・運動不足で帰ったら膝関節など痛くなりました。先日の「野ざらし」ですが、<市隠の場>から<逆旅の場>への変質というので高橋庄次さんがとらえています。場の変質ですね。サイクリングも往路は新鮮な発見が多くあります。」20 20/5/10付僚友への書簡。
高尾-甲府間は、芭蕉「谷村流寓」「野ざらし紀行」の歩いた道と重なる部分あり、見所多く、井月も一度は歩いているはずであり、しかし痕跡は少ない。名所多々あるなかで、芭蕉、井月ともに記載はないが、甲府の酒折宮には、井月、一度は寄っているのではないか?
*酒折
山梨県甲府市の市街地東端にある地区。『古事記』や『日本書紀』に名がみえ、古代の甲斐(かい)の中心地であったらしく、九つの古道はすべてここを起点としている。酒折宮は日本武尊(やまとたけるのみこと)を祀(まつ)る神社であるが、尊が東征の帰路ここに宿泊されたと伝えられる。江戸時代も甲州街道と青梅街道(おうめかいどう)の分岐点にあたり、甲府の玄関口となっていた。
*酒折宮
酒折宮 (栄降り宮)。ハラミ山麓にあったホツマ国の主宮。ハラミサカオリとも。
(ホツマツタヱによる)
「塩山から甲府は17kmばかり。たいした距離ではありません。それでも何度も人に聞きました。・・酒折という社があります。ヤマトタケルが筑波嶺をまわって火焼の翁と連歌をとりかわした処です。 ここも訪ねたい処のひとつでした。裏山に柑橘の実が色づいています。
・・すぐ隣に甲斐善光寺とかあり人込みでにぎやかでしたが、こちらはひっそり。でも本居宣長が寿詞を残しています。(myブログ2015/9/16)」
本居宣長撰文・平田篤胤筆による「酒折宮壽詞」
*本居宣長
[1730~1801]江戸中期の国学者。国学の四大人の一人。伊勢の人。号、舜庵(春庵)・鈴屋(すずのや)。京都に出て医学を修める一方、源氏物語などを研究。のち賀茂真淵に入門、古道研究を志し、「古事記伝」の著述に30余年専心。(デジタル大辞泉)
酒折は、何はともあれ、タケルと御火焼ノ翁による連歌発祥の地で名高い。
「・・即ち其の國より甲斐に越え出でて、酒折の宮に坐しましし時に歌いて曰く、
邇(に)比(ひ)婆(ば)理(り)○
都(つ)久(く)波(ば)袁(を)須(す)疑(ぎ)弖(て)
伊(い)久(く)用(よ)加(か)泥(ね)都(つ)流(る)
新治○
筑波を過ぎて
幾夜か寝つる
爾くして、其の御火燒(みひたき)の老人(おきな)御歌に續きて以って歌いて曰く、
迦(か)賀(が)那(な)倍(べ)弖(て)
用(よ)邇(に)波(は)許(こ)許(こ)能(の)用(よ)
比(ひ)邇(に)波(は)登(と)袁(お)加(か)袁(を)
日々並べて
夜には九夜
日には十日を
タケルと火焼ノ翁の歌問答は、片歌(五七七)と片歌(五七七)を合わせた旋頭歌をなす連歌。これをもってここが連歌発祥の地といわれる。
この問答、
「新治 筑波を過ぎて(幾夜か寝つる)
日々並べて 夜には九夜 日には十日を」
問いの後七(幾夜か寝つる)を脱落させると、五七五七七の短歌の唱和になる。
井月、広い武蔵野にいて富士は至る処から顔を出す。今でこそ大気の澄明さはないが、二峰の筑波山も霞んでよく見えたでしょう。
井月にある数少ない和歌はみな秀逸に思えるが、
連歌から逆に短歌(和歌)の生成という詩法を、井月、夢見ていたのではないか。
酌酒は是風流の眼也月を見るにも花を見るにも
狂言寺和尚筆
*此の上に三社神の様に中央に劉伯倫五平大神、右に李太白権造社、左に陶淵明山好神と並書してある。五平権造、山好は何れも東春近村の人で所蔵者飯島幾太郎氏は五平の孫である。(全集註)
中心にあるのは「酌酒」=眼(まなこ)、周囲に五平、劉伯倫、権造、李太白、山好、陶淵明、井月、狂言寺和尚、それぞれの幻影が走馬灯の火のように揺れつ明滅している。ある種のファンタスマゴリア(幽霊遊び)ではないだろうか…
*「井月とその分身」というテーマで進めていたのですが、非常にわかりにくい文章で申し訳ありません。井月は、若いころ長岡から最初に江戸に出ているでしょう。たぶん父親に伴われていたでしょう。江戸、武蔵野は、さしたる痕跡はありませんが、隅々までよく歩いているようです。拙著「井月と武蔵野」近刊準備中。新しい情報でもうすこしわかりやすいでしょう。
*文久二年(1862)
「まし水」1862九月、「越後獅子」1863、「家づと集」1864
梅通の句は「まし水」「越後獅子」それぞれ巻頭にあり、梅通は1864年が没年ゆえ「家づと」には収載されてない。これは「梅通・元治(げんじ)元年3月12日死去。68歳」から1864年3月12日以降に、井月が京に訪ねていることがわかる。六月頃から伊那、善光寺への足跡があるので、京には三月から六月にかけて「家づと」の句を拾いにいった。
「まし水」の句だが、文久二年(1862)九月までの間に(そう昔ではないと思われる)、京で井月が梅通に対面して貰い受けた句とすると、1862年頃の京や全国の時局の様相が気になるところ。
正月15日に 坂下門外の変 井伊直弼の遺志を継ぎ公武合体を画策していた安藤信正が 水戸浪士たちに襲われる事件。
二月 家茂将軍と和宮の婚儀。(江戸)
筑後・久留米の真木和泉はじめ龍馬たちもこの年に脱藩。薩摩藩主島津久光の率兵上京。攘夷派の脱藩浪士京に集まる。
寺田屋事件。文久2年4月23日(1862年5月21日)に薩摩藩の事実上の指導者・島津久光が薩摩藩尊皇派を排除した事件。
8.21 生麦事件。島津久光の家臣、武蔵生麦でイギリス人を斬る。
公武合体派と過激攘夷派の対立が顕著で、「まし水や河原ながるる花のちり」の<まし水>は大きな出来事への到来を予兆させるものがある。井月、長岡藩脱藩説があるとして、その根拠となるものまったく不明だが、京にいてこう急進する時局に無関心でいられるはずがない。といっても風雅の追求の痕跡ばかりが残っているのには、根元的な諦めによるのであろうか。
安政五年(1858)に疫病コレラが流行して、俳諧師・志倉西馬は加賀で客死、江戸で絵師・歌川広重、戯作者・山東京山が没するなど、江戸だけでも10万余が死んだともいう。この安政コレラは、7月に米艦ミシシッピー号が中国から持ち込んだものといわれる。
この時の残留菌から、文久二年(1862)にはさらにコレラ大流行があり、56万人の患者が出た。江戸の死者は7万3000人〜数十万人という。(これらの数値参考まで)
1862年あるいは前年に、井月が、「まし水」の為に、洛・江戸・難波・尾張・三河・美濃を行脚して句を集め、他は伊那谷周辺の句ばかりになる。北越の句がひとつもないのは郷里にはもどっていないということか。京、江戸は尊王派の過激な騒ぎが人目をひくが、コレラの流行も広くあったのは注意したい。
江戸は、為山・卓郎・見外、京(洛)は、梅通・芹舎・公成の各三名の句がみられ、いずれも当時の最上位の実力者だが、将軍・天皇のお膝元にしてはいかにも少ない。伊那谷⇔京の経路は東山道、東海道をつなぐルートがみやすいが、伊那谷⇔江戸の往還のルートは「まし水」の限り余りよく見えてこない。江戸はいかにも飛び地に見える。
芭蕉が野ざらしの旅で立ち寄った尾張・三河に井月もよく訪ねているから東海道を本線に一度は歩いているだろう。伊那谷⇔江戸の一番の最短ルートは諏訪を経由して甲府に出てそのまま甲州街道で八王子、武蔵に入る。まっすぐ行けば高遠藩下屋敷のある内藤新宿になる。
甲府の酒折はここを首とする九つの古道の分れる土地という。「酒折」の語源は、境界を意味するサカ(坂、界、境)と「重なり」を意味する「オリ」としている説もあり、自分としては文字通り「酒折」はそのまま酒造りの意味ではないかと思う。スサノオが出雲のヤマタノオロチを退治するに「八塩折之酒」を八つのオロチの首に呑ませたという。八塩折とは幾度も繰り返して醸造する意で、その酒造りの土地だ。スサノオが始めて入った出雲の出来事は、タケルが甲斐に入って片歌問答をした事と、おそらくイメージとしては二重に重なる。タケルはスサノオの分身という、古事記の仕掛けかもしれない。
*記では「八鹽折之酒」、紀では「八醞酒」。醞は醸、カモス、カム。
酒折は、まあ、バッカスのいる甲斐の中心地であったのかも。
「まし水」1862年九月に編んだ後、井月の足跡は一部確かめられている。郷土誌「長野」(平成13年9月発行)掲載のエッセイ「井上井月の美濃行脚」(矢羽勝幸)によると、岐阜関市にある広瀬惟然「弁慶庵」を訪ねたところ、古い揮毫帖『惟然居士手向集』をみることができる。この中に「笠石に寂をしれとや秋の風 井月」とあり、これはどうやら文久二年秋の訪れのようだ。
「まし水」洛にみえる他の二人の句、「坂こへた汗もひくなり鹿の声」芹舎「見所もなき野なりしに萩の花」公成。梅通の「まし水」の句が春とすると、芹舎公成の句は秋になる。仮に井月が京で梅通に会ったのが文久二年の春とすると「鹿の声」や「萩の花」の秋まで京にいつづけたというのは考えにくい。三月から九月頃までの間に二度は京を訪れていたようだ。
酒折での、タケルと火焼ノ翁との歌問答
「迦(か)賀(が)那(な)倍(べ)弖(て)
… 日々並べて…」
「迦(か)賀(が)」は普通「日日」と訳されているが、これには異説もある。タケルの行跡、出雲神話のイメージを喚起する事多々あるが、この「かが」についても、風土記島根郡加賀郷の件はどうであろう。
「加賀郷。郡家北西二十四里一百六十歩。佐太大神所坐也。御祖神魂命御子。支佐加比比賣命。闇岩屋哉詔。金弓以射時光加加明也。故云加々。」
(郡家の北西二十四里一百六十歩の所にある。佐太大神のお生まれになった所である。御母である神魂命(かみむすび)の御子、支佐加比比売命(きさかひひめ)が「暗い岩穴である。」とおっしゃって、金の弓を持って射られた時に、光り輝いた。だから、加加という。〔神亀三年に字を加賀(かか)と改めた。〕
…
「加賀神埼。即有窟。高一十丈許。周五百二歩許。東西北通。〈所謂佐太大神之所産生處所産生臨時。弓箭亡坐爾時御祖神魂命之御子。枳佐加比比賣命。願吾御子麻須羅神御子坐者。所亡弓箭出來願坐。爾時角弓箭隨水流出。爾時所生御子詔。此者。非弓箭詔而。擲廢給。又金弓箭流出來。即待取之坐而。闇鬱窟哉詔而射通坐。即御祖支佐加比比賣命社坐此處。今人此窟邊行時必聲磅磕而行。若密行者神現而飄風起。行船者必覆也〉」
(窟(いわや)がある。高さは一十丈ほど、周りは五百二歩ほどある。東と西と北とに貫通している。いわゆる佐太大神(さだのおおかみ)がお生まれになった所である。お産まれになろうとするとき、弓矢がなくなった。そのとき御母である神魂命(かみむすひ)の御子、枳佐加比売命(きさかひめ)が祈願なさったことには、「わたしの御子が麻須羅神(ますらかみ)の御子でいらっしゃるならば、なくなった弓矢よ出て来なさい。」と祈願なさった。そのとき、角の弓矢が水のまにまに流れ出た。そのとき弓を取っておっしゃったことには、「これはあの弓矢ではない。」とおっしゃって投げ捨てられた。また金の弓矢が流れ出てきた。そこで待ち受けてお取りになり、「暗い窟である。」とおっしゃって、射通しなさった。そこで御母の支佐加比売命の社がここに鎮座していらっしゃる。今の人はこの窟のあたりを通る時は、必ず大声を轟かせて行く。もし密かに行こうとすると、神が現われて突風が起こり、行く船は必ず転覆するのである。)
*加賀神埼(かかのかんざき)。:松江市島根町加賀の加賀潜戸のある岬
(Mataponさんの「出雲国風土記」現代語訳参照)
かか 俗にいう「呵呵大笑」というのは、どうであろう。井月なら千両千両とか。
甲斐の酒折ノ宮に、井月、一度は立ち寄っているのではないかという推測。井月、明治二巳年弥生基角亭興行の半歌仙、
山里や雪間をいそぐ菜の青み 井月
長閑に水のふえる谷川 三子
はつ乙鳥来ては戸口に囀りて 梅花
朝から客の絶ぬ休み日 露鶴
酒折も肴の折も月用意 井月
…
井月の発句ではじまり第五に「酒折も」の句が来る。この時代、酒の折詰というのも想像しづらいから酒折は甲斐の酒折ノ宮を言いたいのであろう。明治になって伊那谷での俳諧活動を再開しはじめたもっとも初期の連句。幕末維新の騒乱のさ中、江戸武蔵-伊那往還の途中で酒折ノ宮に立ち寄ったのではないか。
「酒折」はともかくとして、この連句、ちょっと感動しませんか。発句はそのまま、脇の「長閑に水のふえる谷川」、これって「まし水」だけど川上川下に関わらず谷川は雪消の水でしょう。この長閑さは涙がでそうです。
***
〇タケルと日焼ノ翁の歌合わせは、五七七+五七七・旋頭歌。
〇「安政五年(1858)に疫病コレラが流行して、俳諧師・志倉西馬は加賀で客死」は誤記。江戸でコレラで逝去が正しい。


