小高太郎の夢の跡!旧小高城守護不動尊!
茨城県行方市の小高のお不動様と小高稲荷神社へお参りしました!
平安時代に常陸の国は、桓武平氏の流れをくむ常陸大掾氏(ひたちだいじょうし)が勢力を拡大していた。行方郡はその一族、忠幹が「郡司」として支配し、郡内の荒野開発を進めていた。
その子、景幹が1184年源平の合戦で源義経に従って屋島の戦いで戦死すると4人の息子に分割剰余した。
行方(後に小高)・島崎・麻生・玉造の地名を苗字とした諸氏は「行方四頭」と呼ばれ、郡内に勢力をふるいました!この不動院は、中世の行方四頭の長男、小高太郎の重臣で四天王の畑木家の子孫が御守りしています!
長男の為幹は、行方氏の宗家を継いで、行方太郎と称し、後に小高に本拠を移したので小高氏となった。この人物が曹洞宗小高山(しょうこうざん) 皇徳寺を創建した小高太郎為幹である。為幹は、鎌倉時代初め13世紀の初頭に小高城を築いて、行方城からここに移った。小高城は30mの断崖上に築かれた山城で、二重の空濠をめぐらし、三方は深田に囲まれていた。家来達を近くに住まわせ、城域に菩提寺として皇徳寺を建立した。(現在の常光院の所)
現在の小高のかやの後方に小高城がありました。
現在の小高のカヤ
茨城県指定有形文化財(天然記念物)小高のカヤ
所在地 行方市小高925
指定年月日 昭和33年3月12日
カヤは山野に自生するイチイ科の常緑高木である。葉は平たい線上で堅く、先がとがっている。雄雌異株である。種子は食用や薬用となる。材は堅く、建築・碁盤などにも使われる。本カヤのあるこの地は、その昔天台宗神宮寺の境内といわれ、このカヤは神宮寺があった当時に植えられたものと考えられる。
近年、樹勢の衰えが目立ち始め、樹勢回復事業として土壌改良工事(平成18年~平成19年)を行った。
幹囲 約6.1メートル
樹高 約21メートル
樹齢 約650年
枝張り 約20メートル
平成23年3月 行方市教育委員会
16世紀末、常陸北部の佐竹氏が常陸統一を推し進め、1591年、行方の一族はことごとく滅亡した。小高氏の家来達は、すべてこの小高の地で帰農した。小高城へは、4年後、佐竹氏の家臣、大山義勝が入り、皇徳寺は追放されて常光院と名を変えた。
7年後、1602年関ヶ原の戦いで豊臣側だった佐竹氏は秋田へ移封。小高にいた大山氏の家来達は集団で土着帰農し、小高城は廃城となった。
1595年、安土桃山時代、小高城は、佐竹氏の家臣、大山義勝が入り、皇徳寺跡は常光院と名を変えた。
1602年、安土桃山時代、佐竹氏は秋田へ移封。小高城廃城。
1603年、江戸幕府成立
1604年、江戸時代、小高は麻生領となる。(新庄氏の麻生藩)
1700年、江戸時代皇徳寺は、現在地へ再建(5代将軍綱吉の時)
1602年関ヶ原の戦いで豊臣側だった佐竹氏は秋田へ移封。小高にいた大山氏の家来達は集団で土着帰農し、小高城は廃城となった。
不動尊縁起には、第7号麻生の文化に投稿している箕輪徳二郎氏の様のご執筆を参考にさせていただきました。
畑木氏の先祖は山中三河守と申し、小高城の客分だった。山中三河守は、天正年間に小高城落城後、高尾佐仲と改名して土着し、次いで畑木姓を称したと亡き当主は語った。畑木氏の東隣に小字名を「山中田」と称する土地があり、山中氏飲用の井戸も残存していると語った。畑木氏宅に伝来の家宝「十一面観音」が秘蔵されている。座像で高さ十センチ程のもの、背面に木片がはめ込んであり、「自浄造之」の四字が彫ってある。座像底の部に「空海」の二文字が刻まれていた。
不動尊縁起には、大正3年に島並の高崎勇作なる人が、会長 畑木坊太郎にあてたもので、表紙上部に第187号と記してある点から察して、その頃、不動尊講社の社中に配布したものかと思われる。
不動尊縁起
常陸国行方郡小高村小高、畑木坊太郎地内に安置し奉る不動尊の由来を伺えば、いわゆる小高殿の守り本尊とは申すなり。
もっとも太古においては、今の小高村は鯨陸の郷と改めて在り。この鯨陸に小高繁盛殿と申すはすこぶる人物にして、大永年中に(1521~1527)字中条と申すところに、大城を構え地頭となりて暫しの間守護し居たり。
その後、小高繁盛殿の実子にて、御名を小高太郎刑部少輔貞久殿と申す仁の御代に、京都の東本願寺より不動尊の御姿を移し参らせて勧請し奉る。いわゆる小高殿四十二歳の厄払い、さらに守り本尊として城内より東方に位置する钁城久保(かじょくぼ)と申す所に頗る壮厳なる御堂を建立して、くだんの不動尊を安置し奉る。則ちこの不動尊は勿体無くも親鸞聖人自作の尊像と伝え奉る。
その後、天文より天正の間は、日本国中大乱と成り、既に四十八盾も残らず落城に相成る。当小高殿は、天正6年(1578年)12月26日の夜中に常陸国守大名にして、御高八十万石を有する佐竹常陸之介義宣に攻められる。この時、佐竹勢字井貝の瘤並木より忍び入りて、字朝攻峯と申す所にたて籠りたり。朝攻峯より城内までの距離わずかに四五丁なり。佐竹の軍勢一番太鼓を合図として進発し、二番三番と繰り出す。
小高の城内に於いては、夜中突然の事なれば大いに狼狽、防ぎ戦い大戦になりけり。この時、守り本尊の不動尊は八方を白眼み、攻め入る敵を支えて大いに働き給う。敵は不動尊の剣先に畏れをなして大いに退く。
然る処、小高殿の家中に赤塚大膳とて家老職を相勤めたるあり。赤塚大膳この場にのぞみて臆病風のために敵に後ろを見せければ、小高勢大いに退き終に敗軍に及ぶ。小高殿この場より逃げ去り行方不明なり。
その時、小高殿の実子弘菊丸殿と申すは御年十六歳にして戦場に立ちしも、戦運われに利あらずと見て戦場を去り登城郷(只今は島並と申す地、太古は登城郷なりし)まで走り来るに、敵に追いかけられ、字捕討峯と申す処にて討死いたし候。惜しべき限りなり。今もって捕討峯と記すは、討捕峯の謂なり。ここに弘菊丸殿の墓ありと云う。
その後、寛政3年(1791年)8月3日、稀なる暴風にて、字钁城久保(かじょくぼ)不動院御堂大破に及ぶ。よんどころ無く不動尊御姿を田法院に移し奉る。
その後、明治の御改正と相成りて追々学校開かれるに及びて、明治十四年中に神宮寺は小学校に相成り、続いて明治三十二年度には、高等学校に相成り、不動尊のお姿を学校所の北方に向けて御堂を新築建立して移し奉る。
その後、明治四十三年中に元小高部落中に於いて、学校その他の事に就いて総集会を開く、然る処、諸君の見らるるに、畑木坊太郎氏は不動尊を朝夕限りなく信願奉り、不動尊の御利益を以って部落は永楽安全を保てり。
仍て部落中の協議ここに成立、明治四十三年坊太郎地内に移して、勧請し奉るものなり。(この年、餅苗が粳に変わりたるは珍しき事成)(不動尊の御利益なりと伝う)
畑木坊太郎は不動尊を限りなく信仰崇敬し自分地内へ引き移し、毎年春秋二回、国家安全、火難水難盗難病難、諸厄攘除、福運長久を祈りて大護摩執行仕り、尚毎月二十八日は小児一代の虫封じ、産婦の難産除けを修行するに、霊験殊のほかにあらたかなり。
この事伝え聞きたる信奉者毎月参詣するもの本県は申すに及ばず、千葉、東京付近より来るものおびただしく不動尊の御利益を祈り奉るなり。
字島並 高崎勇作 是を納む
大正三年六月二十八日
会長 畑木坊太郎殿
皇徳寺の境内周辺には、前方後円墳をはじめ、いくつかの石棺が発見されている。はっきりしないが、初代為幹の墓は、現在の皇徳寺墓地にあり、家老今井家、四天王の畑木・箕輪・宮内・浅野家、御殿医の高橋家、その他家臣達歴代の墓もそばにある。元禄年間に、皇徳寺をこの地へ移転したことも、そのためではないかと思われる。乱世の戦国時代を生き、現代へと繋いでくださった皆様のご苦労と心意気を感じます。この文献は、行方市麻生郷土文化研究会「麻生の文化」第54号に投稿されています門井俊道様、不動尊縁起には、「麻生の文化」第7号に投稿している箕輪徳二郎氏の様のご執筆を参考にさせていただきました。
小高山不動院には、鎌倉時代製作の木像、不動明王坐像が安置されていました!
不動明王様は宇宙の大いなるパワーを宿す仏様。
煩悩を抱える人々を救う慈悲深い仏様です!
行方市指定有形文化財(彫刻)
小高山不動院(しょうこうざんふどういん)
私の祖母の故郷ですから
私の祖母マサの故郷で、私も幼い頃、小高のお不動様へ行きました。
私の高祖母の畑木もとは、畑木坊太郎の娘です。矢幡の新橋家から婿を取り、すぐ隣に分家しました。その二女マサが麻生の我が家にお嫁に来ました。私の祖母です。高祖母のもとも我が家にたまに遊びに来ていました。いつもたくさんお不動様の事や坊太郎爺さんの話もしていました。その中で、きっと私が亡くなるときに雷様がお迎えに来るからねと言っていました。もとの葬儀の日、晴天だったのに、家を出る時、にわかに空が真っ暗になり、急に雨が降り、雷様がゴロゴロ。するとすぐに静まり晴天となりました。不動明王様と雷様はつながっているのかしらと不思議な思い出があります。
不動明王様と雷様はつながっているのかしら
小高山不動院(しょうこうざんふどういん)内部
激動の歴史をたどり、現在まで繋がっている皇徳寺と不動院と地域の人々。
入口は、石の階段がありました!地域の人々の心のよりどころですね!
鳥居は小高稲荷神社です
皇徳寺の境内周辺には、前方後円墳をはじめ、いくつかの石棺が発見されている。はっきりしないが、初代為幹の墓は、現在の皇徳寺墓地にあり、家老今井家、四天王の畑木・箕輪・宮内・浅野家、御殿医の高橋家、その他家臣達歴代の墓もそばにある。元禄年間に、皇徳寺をこの地へ移転したことも、そのためではないかと思われる。
エリザベス
乱世の戦国時代を生き、現代へと繋いでくださった皆様のご苦労と心意気を感じます。この文献は、行方市麻生郷土文化研究会「麻生の文化」第54号に投稿されています門井俊道様、不動尊縁起には、「麻生の文化」第7号に投稿している箕輪徳二郎様のご執筆を参考にさせていただきました。