行方市麻生郷土文化研究会発行の「麻生の文化」第第54号に掲載!霞ケ浦の海夫たち | エリザベスのブログ

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おとめ座霞ヶ浦四十八津北浦四十四津の海夫たち

行方市麻生郷土文化研究会発行の麻生の文化第54号に

掲載されました!

 

                                         

荒い波こそ沖に出る。

あの時代の霞ケ浦の海夫たちに思いをはせると、水運自治を

行っていた活き活きとした生きざまや掟に、心が躍る。

領主に年貢等を払わず、香取神宮に供祭料を貢進,これら

水域での漁労や交通上での特権を保証されていたあの頃の

海夫たち。水軍や船団を組んでいたのか。

夜は暗い沖にどうやって出たのか。大海原を、命がけで航海

していたのかもと考えると、ロマンを感じずにはいられない。

想像が膨らんでしまうのです。

 

霞ヶ浦の漁業は、海夫にさかのぼるといいます。

海夫は津頭(漁業舟運集落の長)を通して魚介を香取神宮に

納めることで漁業、舟の運行を許された人たちで、平安時代

末期には存在したとされ、『海夫注文』(香取神宮の文書、

1374年の成立といわれる)には、下総で24、常陸で

50の津が記されているそうです。

 

中世の海夫たちは表舞台に実像を表わすことはなかった。

持続性のある共存共栄の水運自治の制度は日本では稀有な

存在であったでしょう。

海夫がその実像を現わすのは、江戸時代からである。

霞ヶ浦四十八津の存在が明らかとなったのは、網野先生の

昭和26,7年の霞ヶ浦北浦探訪調査による。

網野先生は、この時の驚きを以下のように表現している。

「そしてこの霞ヶ浦四十八津、北浦四十四津が、いまでは

到底考えられないような湖全体を管理する巨大な自治組織、

広大な霞ヶ浦・北浦に生きるすべての湖の民の組織である

ことに目をみはり、江戸時代のその実態をできるだけ細かく

調べ、その農業を優先する時代の動きの中で次第に生命力を

失い、やがて幕府や水戸藩の命を執行する組織に退化し、

ついに湖辺の人々の記憶からも消えて行く過程をどうやら

辿ることができた」と慶安の掟書の八カ条の内容を網野先生

の報告書は記載してありました。

 

 

霞ヶ浦が入り海であったころは、海の魚は書ききれないほど

魚種が多かったことが「常陸国風土記」に記されています。

しかし、江戸時代以降は利根川東遷により霞ヶ浦が淡水化

してきたため、コイ・フナ・ワカサギ・シラウオなどの種

類にかわってきました。

この豊富な水産資源を管理するため江戸時代の霞ヶ浦・北浦

では、霞ヶ浦四十八津、北浦四十四津と呼ばれる自治組織が

霞ヶ浦を入会管理(共同管理)していました。

これらの結束を強化するために従来の漁業の慣習を明文化した

「霞ヶ浦四拾八津議掟書」は入会で漁をするときの漁具、

漁法、漁期の制限について規定し、これにより漁業資源の

保護が図られ、湖の秩序が維持されました。

 

明治に入ってから地元の漁師によって大徳網漁や帆引き漁

という霞ヶ浦独特の漁法が考案されました。特に帆引き漁

は少人数での操業で大量の漁獲が得られたためワカサギ・

シラウオ漁に用いられて広く普及し、帆引き船が浮かぶ

独特の景観は霞ヶ浦を代表する風物詩ともなっていましたが、

現在は観光用に運行するのみとなっています。

 

麻生祇園馬出し祭 令和5年7月30日お立ちの写真アップ

 

 

「 箕 和 田 御 留 川 」 「 玉 里( 水 戸 )御 留 川 」

霞 ヶ 浦 の 漁 業 権 は 「 津 」 を 拠 点 と す る 海 夫 

の 特 権 で し た が 、徳 川 幕 府 は 浮 島 付 近 に

 専 用 漁 場 を 設 け 「 箕 和 田 御 留 川 」 と し ま

 し た 。 ま た 、 水 戸 藩 も そ の 領 内 で あ る 

高 浜 入 り に 専 用 漁 場 を 設 置 で き る よ う に

 幕 府 に 要 請 し 、四 十 八 津 側 の 猛 反 対 に も

 か か わ ら ず 、 1625 ( 寛 永 2 ) 年 、「 玉 里

( 水 戸 )御 留 川 」と し て 実 現 し ま し た 。 

当 時 水 戸 藩 は 、御 留 川 を 設 定 し て 、 改 め て

 そ こ で 漁 業 を 行 う 特 定 の 人 々 か ら 権 利 金

 や 税 金 を 徴 収 し て 、藩 財 政 を 潤 す 一 事 業

 と し ま し た 。 

水 戸 御 留 川 の 運 営 は 、 御 直 網 ( 藩 直 営 の

 漁 業 ) と 入 札 運 上 ( 一 番 高 く 入 札 し た も の 

に 営 業 権 を 与 え 運 上金 を 課 す る ) の 2 通 り

 で 行 わ れ ま し た 。 

 

さ ら に 湖 畔 に 領 土 を も っ て い る 土 浦 藩 や 

麻 生 藩 な ど も 、支 配 地 の 地 先 の 漁 場 か ら

 運 上 ( 一 種 の 営 業 税 ) を 徴 収 し よ う と い う

 気 運 が 高 ま り 、 四 十 八 津 側 の 「 湖 は 入 会

 」と す る 主 張 は 通 ら な く な り ま し た 。

 

 こ の よ う な 状 況 下 で 、 四 十 八 津 の 名 主 が

 集 ま っ て 協 議 の う え 、漁 業 を 権 利 と し て

 認 め 、 規 制 を 定 め て 、 お 互 い に 資 源 を 守 

る た め に 、 1650 ( 慶 安 3 ) 年 に 掟 書 が 定 

め ら れ ま し た 。 

そ の 内 容 は 、 漁 期 や 漁 法 の 制 限 、掟 を 

破 っ た 場 合 の 処 罰 措 置 や 救 助 活 動 な ど に

 つ い て 申 し 合 わ せ を し て お り 、漁 業 権 を 

認 め た 最 初 の も の と 言 え ま す 。 

 

霞ヶ浦の天王崎  八坂神社の松林アップ

 

こ の 掟 書 は そ の 後 、 1726 ( 享 保11) 年

、 1741 ( 寛 保 元 ) 年 、 1815 ( 文 化 12

 年 と 3 回 に わ た っ て 議 定 が 行 わ れ 

補 則 さ れ て い ま す 。 

享 保 期 を 境 と し て 一 村 ご と に 地 先 水 面

 を 、そ れ ぞ れ の 領 主 に 運 上 金 を 納 め 、

運 上 場 と す る こ と に よ っ て 「 村 の 漁 場 」 

が 定 め ら れ 、 四 十 八 津 の 伝 統 的 な 力 は

 失 わ れ て い き ま し た 。

  こ の 掟 書 に よ る と 、 そ の 頃 の 魚 類 は

 鯉 ・ エ ビ ・ イ サ ザ ( ア ミ ) な ど が 主 で 、 

生 魚 の ま ま か 、干 し 魚 と し て 販 売 さ れ て

 い ま し た 。

ワ カ サ ギ な ど も 生 魚 の ま ま か 干 し 肥 料

 と し て 販 売 さ れ て い た よ う で す

 ( ワ カ サ ギ を 漢 字 で 「 公 魚 」 と 書 く の は

麻 生 藩 が 将 軍 家 に 焼 き わ か さ ぎ を 献 上

 し 、公 儀 御 用 魚 と さ れ た こ と に 由 来 し 

ま す。)

  • 14世紀頃
    海夫の存在。香取社の支配下にあって漁労・

    水運の特権を認められる
  • 1368(応安元)年~1375(天授元)年
    『海夫注文』著される
  • 15紀前半
    商船を狙っての海賊行為が行われ、関東管領
  • 上杉憲実が取り締まりを命じる(鳥名木文所)
  • 1590(天正18年)
    ――豊臣秀吉が全国統一する
  • 1594(文禄3)年
    利根川瀬替え東遷工事はじまる
  • 1603(慶長8)年
    ――徳川家康が江戸幕府をひらく
  • 1610(慶長13)年大徳網出現(地引網)
  • 1650年慶安3年
    『霞ヶ浦四十八津掟書』が定められる
    (漁具・漁法・漁期違反者処罰法等を定める)
  • 1654(承応3)年
    利根川東流完成、霞ヶ浦・利根川の舟運が活発化

 

 おとめ座エリザベスベル

多くの皆様の資料や文献を参考にさせていただき

ました。心から感謝申し上げますキラキラ星ベル

 

 霞ケ浦から見た筑波山のすばらしさ