三好家の花
ちょっと いい陣屋町あそう
近世の江戸時代から、明治維新まで、この麻生の地を
護り慈しんでくれた新庄さま
そのなかで、家老 三好家を紹介しちゃうわ![]()
「麻生藩 家老 三好家」の四季折々の花も紹介![]()
エリザベス うっとり![]()
「ちょっといい 陣屋まち」
江戸時代の麻生藩の歴史![]()
行方市の麻生には
いいわぁ![]()
江戸時代には麻生藩 新庄氏が居城を構え、
家老畑氏の武家屋敷や菩提寺の海了寺が佇み、
今も当時の堀や景観が残っています![]()
入
麻生藩家老屋敷記念館
江戸時代に入ると、麻生地域は一変します![]()
関ヶ原の戦いで西軍に加わった藤原氏流新庄氏が
麻生地方に領地を与えられ入部したのでした![]()
元和 5 年には、麻生城の東側の低地を活かし
陣屋を構えます。現在の行方市立麻生小学校です![]()
麻生藩の藩士は、陣屋を取り囲むようにして屋敷を構えていた。
城下川の自然の要害を改修し箱樋池や鯉千疋川・新川
そして河岸を設けました。また、北東部にあった宗之台池
から陣屋周辺を囲むように堀を廻らし、重臣たちを堀の内
に住まわせました。
三好氏は、新庄氏のゆかりの地、近江国周辺において
新庄氏と同格、あるいはそれ以上の家柄や勢力を振る
っていた武将でした![]()
三好家の武家様式の式台玄関
「三好家は、麻生藩主 新庄氏の常陸入国に伴って、客分として特別
の待遇を受けた。後に藩士となり、数代に渡り、藩の家老職を務めた。
特に維新期に藩の権大参事になった琢磨は、旧麻生藩の整理と士族
授産、更に、郡・県政などに大きな功績を残している。現在の居宅は
明治十三年の建築であるが、式台玄関や間取りに昔の武家住宅の
様式を伝えている」
こちらは、三好家の稲荷様
三好家の春
長い冬のあとには、春の息吹が聞こえてくる。
三種の蝋梅が咲き乱れて
玄関横の梅の花
水仙も美しい![]()
秋の花
正面玄関のヒイラギ
「麻生藩 家老 三好家」
三好 琢磨
天保十三年二月十五日生まれ。旧舘林藩士の五男として生まれ、
麻生藩家老三好家の養子となり、行方郡役所大参事を経て、
郡農業会会長、弘農社社長、県会議員を歴任。明治十三年、
士族の帰農を援助するため、山林原野七七〇町を払下げ
(実測五五〇町余、九百十五円三銭七厘) 出資金に応じ配分。
明治二十八年解散。明治四十二年知事より、公共事業に尽く
された功績により表彰される。大正八年十月二十三日歿す。
三好家の鴨居の下にあった釘隠【くぎかくし】 ...
長押(なげし)を貫いて柱に打ちつけた釘の頭をおおう装飾金具。
麻生藩の家老として、天和期になると、同じ近江国から移住した
神田氏、畑氏の名前が出てくる。この両氏に宝永二年に名前の出
てくる三好氏を加えた三氏は、明治期、麻生藩の家臣像を譬えて
巷では
「新庄の守りに勝ったる、畠(畑) 神田 三好(舳)なくては
舵は取れまい」とうたわれていました。
エリザベス うっとり![]()
「ちょっといい 陣屋まち」
江戸時代の麻生藩の歴史![]()
江戸時代の麻生藩 新庄家の陣屋の跡は現在、行方市麻生小学校
となっています。正方形の陣屋の敷地そのものはそっくり小学校敷地
に受け継がれており、その形状がよくわかる。この陣屋地を取り囲む
ように建ち並んでいたという藩士たちの屋敷のうち数軒は、今も当時
の面影をとどめている。
その後、麻生地方には麻生藩領の政治文化の中心として鹿行地方で
は唯一続く小さな城下町 陣屋町 として江戸時代をとおして栄えました。
明治維新まで、この地を守り、現在も観光の名所となっている家老達
の子孫が、今も、活躍しています。
素晴らしい地域貢献![]()
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明治維新まで、この地を守り、現在も観光の名所と
なっている家老たちの子孫が、今も、活躍しています![]()










