水門橋が新しくなりました
うぎゃうぎゃうれしいうれしい
私は、思わずうれしくなって、万歳しました
茨城県行方市麻生の城下川にかかる水門橋は老朽化のため工事中でした
2011年9月に、新しい水門橋が完成しました
子供達の通学路でもあるこの橋は、中世の麻生氏の居城であった麻生城(現在の羽黒山公園)の堀でもありました
ピカピカに光っているんだようぅぅ~
そして、江戸時代になって新庄氏が近江から
麻生藩は、近江地方で豊臣秀吉に仕えた摂津高津城主の新庄直頼(なおより)が、関ヶ原の戦いで西軍に加わり改易となりましたが、慶長9年(1604)に徳川家康との旧交により助けられ、常陸国行方郡・新治郡・真壁郡・河内郡・那珂郡、下野国芳賀郡・都賀郡・河内郡内に、改易前と同様の3万3百石余の領地(『恩栄録』)を与えられて、常陸国行方郡麻生を根拠地として成立しました
麻生陣屋(現在の行方市立麻生小学校)の設立は、元和元年(1615)の「武家諸法度」施行後の元和5年とされ、幕府の厳しい制限の中で建設されたものと推測されます
麻生陣屋は、中世麻生城の東側の城下川河口の州上に占拠され、北東側にあった池から掘割に水を注ぎ込み堀の内も形成していました
新庄家の菩提寺である海了寺ココ も、この近くにあります
霞ヶ浦へと続く城下川
参勤交代で新庄氏が江戸へ行くのに使った高瀬舟と参勤の文字が刻まれている
江戸時代、全国の大名は幕府から参勤交代を課されており、地域の幹線道路から五街道などを経て江戸参府をしていました
しかし、歴代の麻生藩主は、江戸往来には御座舟を用いて国屋敷のある麻生新川河岸から、利根川中流の下総国竹袋村の木下河岸(印西市)との間を川船で往来していたのでした。寛永8年(1631)秋には木下河岸から行徳河岸(市川市)に至る街道、いわゆる木下街道の整備が行われ、行徳・八幡・鎌ヶ谷・白井・大森・行徳の各宿が整えられています。木下はこうした利根川改修や木下街道の整備による水路・陸路に通じる交通の要所となるなかで、河岸場として発達して行きました
この橋の完成は、この地域の人々の喜びです安全に通学できる子供達、春には、羽黒山公園で桜を満喫し、秋には、大麻神社祭礼には、山車が通ります
人がいて 歩いて 話して交流の橋
周りの人や景色や歴史文化と溶け合っている水門橋です
城下川は、水門橋からこいせんびき橋へとつづく
昔は、ここで鯉が千匹もとれたのでしょうか
ほら鯉のデザインが素敵でしょ
ここから、新川河岸から、江戸へ向かう
利根川中流の下総国竹袋村の木下河岸(印西市)との間を川船で往来していたのでした
地域の歴史や文化を橋のデザインのモチーフにするって 素敵だわ
水門橋から、こいせんびき橋を通って、水は霞ヶ浦へと続きます
水の国 なめがたの新しい名所が完成